2008年12月04日

直指人心

 直指人心(じきしにんしん)
 直指とは直にそのものをずばりとらえるの意で、禅のねらうところは「心とはどういうものであるか」と知ろうとするものではなく、ずばり自らの心の本体を自らでとらえることによって、自性を徹底発見することをもってまず出発とする。禅ではそれを「知る」といわずに「見る」という。事物を客観的に眺めてこれを知るのではなく、そのままずばり「なり切る」ことによってそのものと一体となり、その物の内からそれをとらえる。そのように純粋直観でとらえることを「見る」という。
 一遍上人が、法燈国師という禅師から「お前はよく念仏三昧を称えるが、その念仏の真髄を歌で示してみなされ」言われ、一遍は一句を差し出した。
 「称うれば我も仏もなかりけり、ただ南無阿弥陀仏の声ばかりぞする」
と、見事念仏三昧のギリギリを歌に尽くしたようにみえた。
ところが、これをじっと見ていた禅師、
「ン、悪くはない。しかしまだ徹底しておらん、なり切っていない」
と言って、今一度考え直すようすすめたが、さすがの一遍もどうしようもなく行き詰まってしまった。
 数年経ってやっとその真髄に触れ、自ら筆を取って
「称うれば我も仏もなかりけり、ただ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
としたためて師に差し出した。それを見た禅師は
「うんよく見た。これでよし」
と一遍の見性を許した。
 「なり切った当体」と「説明」とははるかにへだたるものがあることは、この話によってもわかるとおりである。 崎山崇源著「禅の教え」p141より

shuseikan at 23:14│Comments(0)

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