2008年12月01日

先々之事

7c6c48cf.jpg 剣道で重視する先々の技について、柳生十兵衛は次のように宗矩の言葉を書き留めています。
 これ(先々)が勝つときの極意である。兵法の最高である。習いの数々もここに到達するためのものである。ここに到達すれば、習ったことはみな非(間違い)となり、下手なやり方である。下手だと知りながら、高望みするよりは、下手なやり方である。習いとは、捨てながら捨てない習いである。習いを用いず自然に習いに一致すること、意識せずに到達すること、これが先々である。
 自分の心を敵の心に置き換えて仕合をすれば、早く思い始めたほうが勝つのである。無心に仕掛けて、無心に勝ち、是非の分別も入れず、初一念早いのが、先々の勝ち方である。善も悪も一つである。この心は、弛むものであり、抜けるものである。気を抜くまいとすれば、固くなってしまう。これ(先々)を可能にするのは、「指目(初一念)」、「西江水(尻を張る)」である。
 初一念の起こり始めの根本は、心である。この心を「西江水」に置いてみれば、「初一念」の起こるところが、「先々」と勝てるところである。起こる「初一念」を「指目」という。心は念の本なので、念が先であり、心が先である。「初一念」は、技の先である。したがって「先々」である。これが最高の極意である。
 「初一念」は、技の先である。「初一念」に、間断のない打ちを「無拍子」というのである。心を「先性」という心得がある。心の最高であると理解できる。「空先」というものも心である。平常心である。  「禅の思想と剣術」 p300より

shuseikan at 22:49コメント(0) |  

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