2017年02月
2017年02月07日
先について
新宿剣道連盟のホームページに中に真砂会長が書かれている「井蛙剣談」という会長剣道所感のブログがあります。お話も98話にもなっています。大変為になるお話がありますので、皆様にご紹介方々、このブログに引用させて頂きました。その中の最新話題「先について」の中で「先」と「後」の問題が取り上げられています。モグラ叩きという大変わかりやすい例で、大変勉強になりましたので転写させて頂きました。みなさん、読んで勉強して下さいね。
「機会をどのようにとらえるか」と申しましたが、「とらえる」という言い方をした時点で、過ちが生じる元ともなります。「技の起こり」ですが、ここを打つのを「出ばな技」と言い、打突の好機の最たるものとされています。この技の起こりをとらえようとする胸の内はどのようなものでしょうか。常日ごろの稽古場面を思い浮かべてください。
出ばな技を、モグラ叩きゲームのごとく(どの穴から顔を出すかわからない状態の中)、とつじょ頭を出したモグラを素早くハンマーで叩く。
このような狢圓措け瓩竜せちで構えてはいませんか。
もし、目を皿のように待ち構えて素速く打つのが機会のとらえ方である、と考えておられるのであれば、それは、根本的に間違っている、と申し上げます。
なぜなら、そこには「先」と「後」の問題がすっぽり抜け落ちているからです。
「打突の好機」をとらえるには、その以前に「先」をとっていることが大事なのです。
ここで少し、「先」と「後」について考えてみましょう。
先とは、先んじることですが、間合という時空間の中では、空間的には「前」であり、時間的には「はやい」ということです。
先には、「先々の先」「先」「後の先」があるとされていますが、話を混乱させないため、ここでは横へ置いておきます。
次には先と後の問題ですが、技の起こりを「とらえよう」とする気持ちを抱いた時点で「後」となっていることに気づかなければなりません。
なぜならば、さきほどのモグラ叩きのように、相手の動きが先にあって、その動きを視覚でとらえた後に反応するわけですから、いくら素早い反応で出ばな技を決め有効打となり得たとしても、それはあくまで「後」の技にほかなりません。たとえ部位をしっかりとらえ有効打突となったとしても、タイミングが合ったというだけで、まぐれ当たりの域を出ないのです。今いちど同じ技を同じ筋道で再現させることはできません。再現性のないものは、理に適ったとは言えないのです。
相手の動きに対する反射動作は「後」であって、後は、すなわち「後れ」である、と肝に銘じなければなりません。
(中略)
さて、剣道でいう理合としての「出ばな技」とはどのようなものでしょうか。
モグラ叩きは機械ですから生身の応答関係は生じませんが、あの機械に替わって自分があのモグラになってみたらどうでしょう。
「頭を出そうか出すまいか」と外を窺うと、ハンマーを持った力み立った相手の隆々とした腕が見える。その「頭を出そうか出すまいか」の相手への働きかけこそが「先」なのです。頭を出すまで相手は動けません。主導権はこちら側にあるからです。「がまん」の大切さも思い起こしてください。
もう一つ、「先と後」の関係でわかりやすい話をします。
オーケストラの演奏を頭に浮かべてみてください。
本来、指揮者が「先」、奏者が「後」で、指揮者にすべての奏者が従っているわけです。
しかし、素人目では、奏者が指揮者の指揮に従って楽器を演奏しているのか、反対に指揮者が奏者の奏でる曲に合わせて手を動かしているのか、一見して見分けがつきません。
「先と後」とは、そんな微妙な関係なのです。
仮に、奏者が指揮者に従わず、自分たちのリズムで演奏するとしましょう。
ええっ! 完全に先と後が逆転してしまいます。指揮者は曲に合わせて指揮棒を振るピエロにならざるを得ないのです。(笑)
これはあくまでもたとえ話ですが、「先と後」の微妙な関係を理解していただければ幸いです。
剣道では、生身の人間がお互い同士、応答関係を築き、その上で主導権をつかむことを体得することが大切であります。(以上、井蛙剣談 先について より引用)
「機会をどのようにとらえるか」と申しましたが、「とらえる」という言い方をした時点で、過ちが生じる元ともなります。「技の起こり」ですが、ここを打つのを「出ばな技」と言い、打突の好機の最たるものとされています。この技の起こりをとらえようとする胸の内はどのようなものでしょうか。常日ごろの稽古場面を思い浮かべてください。
出ばな技を、モグラ叩きゲームのごとく(どの穴から顔を出すかわからない状態の中)、とつじょ頭を出したモグラを素早くハンマーで叩く。
このような狢圓措け瓩竜せちで構えてはいませんか。
もし、目を皿のように待ち構えて素速く打つのが機会のとらえ方である、と考えておられるのであれば、それは、根本的に間違っている、と申し上げます。
なぜなら、そこには「先」と「後」の問題がすっぽり抜け落ちているからです。
「打突の好機」をとらえるには、その以前に「先」をとっていることが大事なのです。
ここで少し、「先」と「後」について考えてみましょう。
先とは、先んじることですが、間合という時空間の中では、空間的には「前」であり、時間的には「はやい」ということです。
先には、「先々の先」「先」「後の先」があるとされていますが、話を混乱させないため、ここでは横へ置いておきます。
次には先と後の問題ですが、技の起こりを「とらえよう」とする気持ちを抱いた時点で「後」となっていることに気づかなければなりません。
なぜならば、さきほどのモグラ叩きのように、相手の動きが先にあって、その動きを視覚でとらえた後に反応するわけですから、いくら素早い反応で出ばな技を決め有効打となり得たとしても、それはあくまで「後」の技にほかなりません。たとえ部位をしっかりとらえ有効打突となったとしても、タイミングが合ったというだけで、まぐれ当たりの域を出ないのです。今いちど同じ技を同じ筋道で再現させることはできません。再現性のないものは、理に適ったとは言えないのです。
相手の動きに対する反射動作は「後」であって、後は、すなわち「後れ」である、と肝に銘じなければなりません。
(中略)
さて、剣道でいう理合としての「出ばな技」とはどのようなものでしょうか。
モグラ叩きは機械ですから生身の応答関係は生じませんが、あの機械に替わって自分があのモグラになってみたらどうでしょう。
「頭を出そうか出すまいか」と外を窺うと、ハンマーを持った力み立った相手の隆々とした腕が見える。その「頭を出そうか出すまいか」の相手への働きかけこそが「先」なのです。頭を出すまで相手は動けません。主導権はこちら側にあるからです。「がまん」の大切さも思い起こしてください。
もう一つ、「先と後」の関係でわかりやすい話をします。
オーケストラの演奏を頭に浮かべてみてください。
本来、指揮者が「先」、奏者が「後」で、指揮者にすべての奏者が従っているわけです。
しかし、素人目では、奏者が指揮者の指揮に従って楽器を演奏しているのか、反対に指揮者が奏者の奏でる曲に合わせて手を動かしているのか、一見して見分けがつきません。
「先と後」とは、そんな微妙な関係なのです。
仮に、奏者が指揮者に従わず、自分たちのリズムで演奏するとしましょう。
ええっ! 完全に先と後が逆転してしまいます。指揮者は曲に合わせて指揮棒を振るピエロにならざるを得ないのです。(笑)
これはあくまでもたとえ話ですが、「先と後」の微妙な関係を理解していただければ幸いです。
剣道では、生身の人間がお互い同士、応答関係を築き、その上で主導権をつかむことを体得することが大切であります。(以上、井蛙剣談 先について より引用)