2009年04月
2009年04月18日
武は戈を止める

例年行なわれてきた台東区リバーサイドスポーツセンターが改築中の為、今年は台東区立浅草小学校体育館で行なわれました。
本日のプログラムの最初の「ご挨拶」の中に、古武道のことが書いてありましたのでここに記します。
今日まで数百年の長きにわたり綿々と伝えられてきた古武道は、流祖、先師等古人が生と死を賭けた戦場で習得した実戦の武術でありますが、それが武士の誉れの信条であります仁、義、礼、智、信と一体となり、静と動の様式美さえ醸成され、日本の誇るべき伝統文化財となったものであります。そしてこの古武道は現代武道の剣道、柔道などの源であるとともに歌舞伎、能などの芸能、演劇、文学、映画、美術などの日本文化に大きな貢献をしており、日本語にまで影響を及ぼしております。日本古武道は正に日本文化の時空を超えた表象文化とも言えるものであります。外国人も入門する方が増えてきております。
そしてプログラムの最後の方に、
「武は戈を止める」と申されております如く日常の武術修錬によって得た心技体の実力をあくまで表面に示さず謙虚に余裕をもって自己及び周囲を洞察する心と体を養うことにあります。
現代武道の剣道をやる方々にも、お伝えできればと思い書きました。内容がある文ですよね。
2009年04月13日
2009年04月07日
京都大会組合せ
今年の京都大会組合せが、全剣連のHPに掲載されました。準備をしっかりやって、悔いの残らないような立会いをしたいと思います。これが難しいんです。毎年京都には行っていますが、後悔ばかりです。今年は、その後悔もほんのちょっとにできれば、と思います。
小川忠太郎先生が、講演した時の内容を読んだことがありますが、その内容を以下に引用します。
「無縄自縛」という言葉がある。剣道で例えるなら、相手の方が自分より強そうとか、反対に弱そうだ、、、と自分を縛った目でみる。自分自身を束縛していたのでは、いい動きができるわけがない。他人に縛られた縄なら他人に解いてもらわねばならないが、自分で縛ったものなら自分で解けばよい。一切のものが自分の心の中にあるのだから。修行をするということは、自分を縛っている縄を断ち切ることだ。言葉を変えれば、そんなもの捨ててしまえば「一念不生」だけが残る。だがここまで来られた人でも、「俺は名人になった。だからこれ以上の修行は必要はない」と考える人がいるかも知れないが、こういう人は早い時期に「一念不生」から脱落してしまう。ようやく、一念にたどり着いたところで手を抜けば、それまでの修行が水泡となって消えてしまう。人間は死ぬまで修行、生きている限り修行を続けることが大切で、忘れてはならないのであります。
(昭和56年6月神奈川県立武道館にて)
「一念不生]とは、一片の妄心も起こすことのない、澄みきった境界に達する、ということ。ここまで到達できたら日本では神様。ところが、「一念不生」の素質は人間なら誰でも生まれたときから享有している。だから、「自分も持っているから出来る」と信じること、すなわち「自信を持つ」こと。自分以外の神や仏を信ずるのではなく、自分を信じなさい、根本はそこにある。
小川忠太郎先生が、講演した時の内容を読んだことがありますが、その内容を以下に引用します。
「無縄自縛」という言葉がある。剣道で例えるなら、相手の方が自分より強そうとか、反対に弱そうだ、、、と自分を縛った目でみる。自分自身を束縛していたのでは、いい動きができるわけがない。他人に縛られた縄なら他人に解いてもらわねばならないが、自分で縛ったものなら自分で解けばよい。一切のものが自分の心の中にあるのだから。修行をするということは、自分を縛っている縄を断ち切ることだ。言葉を変えれば、そんなもの捨ててしまえば「一念不生」だけが残る。だがここまで来られた人でも、「俺は名人になった。だからこれ以上の修行は必要はない」と考える人がいるかも知れないが、こういう人は早い時期に「一念不生」から脱落してしまう。ようやく、一念にたどり着いたところで手を抜けば、それまでの修行が水泡となって消えてしまう。人間は死ぬまで修行、生きている限り修行を続けることが大切で、忘れてはならないのであります。
(昭和56年6月神奈川県立武道館にて)
「一念不生]とは、一片の妄心も起こすことのない、澄みきった境界に達する、ということ。ここまで到達できたら日本では神様。ところが、「一念不生」の素質は人間なら誰でも生まれたときから享有している。だから、「自分も持っているから出来る」と信じること、すなわち「自信を持つ」こと。自分以外の神や仏を信ずるのではなく、自分を信じなさい、根本はそこにある。