2009年01月

2009年01月31日

剣道形の一人稽古

 堀籠敬蔵先生著「日本剣道形考」
 なぜ剣道形を学ぶのか p59より

 いま著者の行なっていることは、日本剣道形の一人稽古である。
 構えて息を十分吸い込んで臍からさらに足の裏へ、俗にいう足心まで下げ、さらにここより息を上げて臍でおさえ、そこで三歩前進機を見て、打太刀は「ヤー」で息を吐いた後、そのまま息を止めて元の位置に帰る。仕太刀の方も「トー」で打ち込み元に帰るまで一息で行なう方法で息の修錬と剣の修錬を求めて頑張っている。それに時間を見ては数息感も行なっている。以上だが、本人の体力・気力に応じて形による呼吸法の一人稽古をおすすめしたい。
 出来れば、一本の形を一息で出来るようになるまで努力してもらいたいと思う。
 このような方法で、形を演武することによって、真剣味が生まれ、冬でも汗が流れ出るものだし、身体にゆとりができ、構えもでき、位、風格が備わってくるものである。
 、、、中略、、、、
 かく考えてくると、剣道においても形の修行によって坐禅と全く同一の効果を得ることができると思っている。
 それほど呼吸は我々道の修行には欠かすことのできないものなのである。
 呼吸の工夫が、人生の工夫にもつながってゆく。
 
 今日の稽古後、審査の為に剣道形をやっている方がいらっしゃいました。審査の為ではなく、「なぜ剣道形を学ぶのか」を考えて、この本を読んで考えて頂きたいと思い、ここに記しました。よくよく吟味すべし、ですね。

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2009年01月27日

打つ、打ち切る

 今日のジュニアクラスの稽古の中で、M尾先生が「正しい打突」について、ご指導されていらっしゃいました。小学生には「気剣体の一致」といった難しい言葉は勿論わかりません。言葉を噛み砕いてわかりやすい説明でした。
 「打突」とは、打つ、突くと書きます。打つ、といっても段階がたくさんあります。日本語の難しい所でもありますが、漠然としています。人によって解釈、イメージに差が生じてきます。
 岡憲次郎先生は、打ちにも段階があり、叩く、当てる、打つ、打ち、打ち切る、とおっしゃっていたことを、思い出しました。稽古後の挨拶時に、打つについて少し話をさせてもらいました。叩く、当てる、打つ、打ち、打ち切る、と段階があること。叩く、といってもわかりにくいので、たたくとはトイレのドアをノックする、トントン、入っていますか。竹刀でトントンでは軽すぎ、打ちが弱いことは、理解したようです。ハンマーで釘を叩くだと、力の入りすぎ。打ち切るまでにはまだ時間がかかりそうですが、話をしないとわからないので一応話をしました。小学生に教えることの難しさを改めて再確認しました。
 小学生でも大人でも、自分の体験、経験にてらして物事を理解しようとするので、やはり「自得」しかないこと、経験することの大切さ、意識の持続、いろいろ大切な要素を確認することができました。問題意識の継続、これは何事でも大切なことです。求道精進ですね。


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2009年01月25日

事理相忘より

 昨日に引き続き、岡憲次郎先生が指導者講習会で講演された、「私の剣道修行」の中から。事理相忘P30より。
 私がやっていることを皆さんに言います。
 一つは足を出しながら打っていく。右足を。これはどこからヒントを得たかというと剣道形です。形は右足を出しながら打っていくわけです。右足をそのままの状態で踏み込むことは形ではありません。そこに気付いたわけです。私は右足を出しながら打つように心掛けています。
 二つ目は自分の膝が指の先にかかったらその重心を抜かないと打てない。だから自分の重心がどこまでかかったら足が抜けなくなるか。親指の付け根。そこまで重心が出ていくまでには打てます。ですから、膝を自分の親指の付け根までゆっくりと出していく時間に相手の人は動いたところを察知し、打ってくる。そこのところを動いた状態から動いた状態で打つ方が早い。そしたら打てる。
 三つ目は、頭をずーっと出していく。そうすると身は懸かりになったらだめだといいましたけれども足との関係がありますけれども、自分の重心を爪先にかからないようにして頭を出します。あんまり早く出すとだめなんですけどゆっくり。相手は動いたのを察知して打ってきますからそこを打つ。
 もう一つは右足を出したら、右足に力を入れますと、さっき言った指の先に力が入ります。右足を出しても右足に自分の重心を移動させません。しかしそこを相手は動いたと思って打ってくる起こりを右足に重心がかかっていませんから抜いて打つことができます。しかしこの状態で打てなかった足を継ぎます。けれども左足を継ぐとき相手の人も打ってきます。やはり左足を出す。さっき言ったような気、そういうものを抜かないようにしないと相手に打たれます。
 剣道というものは非常にいろいろなことを考えながらやっていかないとできないですから難しい。

shuseikan at 09:46|PermalinkComments(0)

2009年01月24日

裏鎬

 岡憲次郎先生が指導者講習会で講演された、「私の剣道修行」の中に、裏鎬の話が出てきます。事理相忘P36より。
 柳生連也斎は、表鎬のない刀を作らせた。よく切れる。そして調べたところ包丁は皆そうですね。台所の包丁は、片鎬です。よく切れる。
 だけど今は切る剣道じゃない。剣道は右足が前に出て右手も前に出ますから、右半身になる。力を剣先の物打ちに集中させるためには、どう左側の力がまとまっていくかということを考えないと竹刀の物打ちに力が集中しません。そのためには表鎬はしのげますけれども、裏でしのぐときには、腰の回転がないとしのげません。
 湯野先生も裏鎬を勉強しろと言われました。さらにはこうも言われました。「剣道は絶対にさがるな。打つな! 刀ではそう簡単に打ってはいけない。吸う息より吐く息を三倍かかって吐け。」と。
 裏を攻め竹刀を下げて自分の方が裏へ持っていこうと思うと小手があきますから打たれるのです。だから、裏へ持って行き方があるわけですけれども、そういう勉強して裏から攻めて自分の左の腰、左の膝、左の肘、左の拳。そういうものをなるべく前に出すようにして、左手の親指を相手の臍に突っ込むような感じで打突をしていかないと自分の打突が物打ちに集中しない。そこを勉強して下さい。

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2009年01月20日

剣は心なり  

 昔の剣術は、剣を遣って相手を殺す技術、相手に勝つ技術を学ぶ為のものであると言われていました。
 しかし、「剣道」は剣を遣って相手ではなく、自分の心を磨き、相手の成長を助けるためのものであります。剣道の稽古の中で、礼儀作法を学びそして尊び、稽古相手を尊敬するということは、こうした理由からなのです。この考え方、方法を我々は「道」と呼びます。
 我々祖先が「術」から「道」へ、長い歴史を経て、昇華させたのです。
 これが、現在多くの人達が日本人の文化として愛好し、修行している剣道なのです。
 勝海舟の剣の師匠でもあり、剣心一致を説いた島田虎之助が言い残した言葉です。
   
   剣は心なり  
     心正しからざれば  
       剣また正しからず  
         剣を学ばんと欲すれば
           先ず心より学ぶべし
 

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2009年01月17日

日本古武道振興会

 日本古武道振興会の新年懇親会があり、今年も参加させて頂きました。
 日本古武道振興会は、昭和10年2月、松本学貴族院議員、小山松吉司法大臣、二荒芳徳伯爵等当時の有識者と古武道各流代表者が集まり結成されました。
 日本の誇るべき伝統文化財である古武道の衰徴を憂い、その保存と振興を図ることを目的としました。昭和15年には財団法人の許可を受け、戦後になり占領軍や諸般の事情から昭和21年1月財団法人を自主解散し、現在は任意団体として活動しています。
 初代会長松本学先生のご遺訓があります。
 『武は内に蔵して外にしめすべからずと云われています。毎日真剣に行じた事々を心の糧として謙虚な心を以って日常生活を意義づけてゆく事こそ古武道振興会の目指す所です。各流各派の流祖が心血を注いで大成し、一器より一器にうつす如く伝えて来た古武道の尊き伝統を各位の一層の精進とその完き継承とを切に望まれるものであります。』
 このことを銘じ、古武道伝承の使命に尽くして参りたいと存じます。
「毎日を真剣に取り組み、謙虚な心を以って日常生活を意義づける」ですね。頑張りまーす。

shuseikan at 23:23|PermalinkComments(0)

2009年01月15日

己を顧みて己を知れ

 「己を顧みて己を知れ。たとひ学文広くしていかほど物を知りたりとも、己を知らずば、物知りたるにあらず。」 鈴木正三(1579〜1655)
 知識を得るということは、そういう営みを通して己を知ることでなくてはならない。自分自身というものを知って究めようとする姿勢がない限り、知識を集積しようとしても、それは所詮知識のための知識にしかならない。己の裏づけのない知識など、いくら集めても結局は、我が身を肥やす肥料とはならない。本来の自分がしっかりと築けてこそ、あらゆる知識も生命をおびて躍動してくる。知識それ自体は「本来の自分」にたどり着くうえでの重要な補助輪である。
 

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2009年01月13日

随処に主と作れば、

 随処に主と作れば、立処皆な真なり
 ずいしょにしゅとなれば、りっしょみなしんなり。『臨済録』の示衆に出てくる言葉です。
 人生という舞台では、順境逆境が次々に訪れるもの。出世街道を上るときもあれば、不遇な時代を余儀なくされることもある。だから、よりよく生きたかったら、その時、その場でおかれた状況をどう受け止め、どう行動するか。心の姿勢が求められるはず。自分を見失っては、仕事の、人生の主人公になれるはずがない。振り回されずに主人公になることができれば、もっとも即応できる働きができるし、生命を活かしきる真実の道にはずれない、ということです。
 「主と作れば」の「主」とは、自我的な自己ではない。自分を忘れたとき、自ずと働き出すほんとうの自己のこと。自分の置かれた状況に文句を言わず、粛々と従いながら、そこに意味を見出し活かしていくこと、どんな立場におかれても、にっこり笑って腹をすえて、大らかに生きたいものである。『禅、あたまの整理』より

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2009年01月10日

第32回日本古武道演武大会

990a1cf4.jpg 日本古武道協会設立三十周年記念 
 第32回日本古武道演武大会 
のポスターと招待券が本日郵送されてきました。鞍馬流剣術も今回出場させて頂きます。
 この大会の趣旨は、わが国の長い歴史と伝統を持つ古武道の「技と心」を広く一般に紹介し理解を得るため、全国各地に伝わる古武道の中から厳選した流派による演武会を開催し、文化遺産である古武道の保存伝承に寄与する、ということです。
 みなさん、お時間のある方は見学して下さい。何枚か招待券がありますので、ご希望の方はお申し出下さい。
  日時 平成21年2月8日(日)
      午前10時30分開会 
      午後4時30分閉会予定
  会場 日本武道館
  鞍馬流剣術 3番目11:16〜11:24の予定
        東山誠 柴田章雄 2名出場 
 

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2009年01月08日

一期一会

 この良く知られた言葉は、千利休の高弟、山上宗二(やまのうえそうじ)の著書『山上宗二記』に出てくる言葉です。よく知られるようになったのは、実はあの井伊直弼が『茶湯一会集』でこの言葉を使ったからだそうです。
 
 「そもそも、茶の湯の交会は、一期一会といいて、たとえば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかえらざる事を思えば、実に我が一世一度の会也」
 
 わたしたちは、人と出会うとき、仕事であれ、遊びであれ、これが最後の出会いと思って、心して、語り、触れ合っているだろうか。だいたい、忙しいとか、ほかに用事があるとか、また会えると思って、その出会いを”ゾンザイ”にしていないだろうか。”ゾンザイ”は実は存在とも書く。
 つまり人との出会いをなんとなく、あるいは自分の都合でいい加減に会っているのなら、相手の存在、人格を軽んじている。さらに言えば人という存在は限られた生命を生きているのだから、相手の生命さえ軽視していることにほかならない。
 身近な家族には一期一会という覚悟が欠落しがちである。亡き人のこの世の不在という事実は、癒しがたい痛みを味わってはじめて分かるのだと思う。
 職場もおなじで、一期一会の生命の出会いが職場なのです。職場の人々と仕事ができることがすばらしいことなんだと、感じ取ることができる能力も一期一会の自覚なのです。一期一会は、これが最後の別れと、その場を惜しむという意味だけではあるまい。一期一会とは、自分が今、ここでどう生きているかを問うている人間のテストではないだろうか。藤原東演著『禅、「あたま」の整理』より
 剣道の稽古も「一期一会」です。
 よくよく考えるべし。

shuseikan at 23:16|PermalinkComments(0)
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