2008年12月

2008年12月18日

今日は昨日の我に勝つ

 「禅の思想と剣術」p314に、柳生十兵衛が、『月之抄』の末尾で次のように極意について総括しているのが載っています。以下、訳文です。

 この無心の心を散らさず、千手万手、事理ともに無心の心にさせるのである。相手から、動けば、この心がなすのである。この心のままに、五体を随わせるがよい。勝負に拘泥してはいけない。この心が勝つ処である。打つのも、合わせるのも、付けるのも、引くのも、懸かるのも、外すのも、この心にまかせて、是非善悪を捨て置くのがよい。捨て置いた、無心の心を無見と心得るがよい。何もかも捨て切って、ない心であるが、死んでしまった様ではなくて、敵が動けば、それに随って、この心が勝負を分け、敵が無心であれば、こちらの心も無心で敵と一体と成るのである。一体になったら、勝負はなくなり無事であり、無心である。心がないのだが、ないとはいえない処が無見である。これは千手観音の体である。摩利支尊天が出現する処であると知らねばならぬ。

 著者の解説、柳生十兵衛が把握した剣禅一如の極意とは無心の心にほかなりません。摩利支天は日光を神格化したインドの神ですが、日本では武士の守本尊とされてきました。沢庵禅師の剣禅一如の教えが柳生流に浸透していたことがわかります。「今日は昨日の我に勝つ」という柳生新陰流の教えは、生涯にわたって剣術修行、自己研鑽に努める必要性を説いた教えです。この教えは現代の剣道修行に受け継がれています。「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」、昨日よりは上手に成り、今日よりは上手に成りて、一生日々仕上ぐる事也。是れも果てなきと云う事也。

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2008年12月10日

吹毛の剣

 風邪をひいてしまいました。この年で、声変わりしています。皆さん体調不良なのか、忘年会なのか、私の体調を思ってか、今日の稽古にいらっしゃった人数は少なかったです。お忙しいことと思いますが、是非稽古に励んでください。
 禅語入門という本の中に、「吹毛の剣」(すいもうのけん)という禅語がありました。大切なことをまっすぐに受け取る力、ことの本質に気づく力のことです。
 指導者というものは、部下の力量や性格を咄嗟に見極める力量を要求されます。仮に日常の対人関係で、相手の心のかすかな動きが見えてきたら、相手を読み取る力がついたということであり、同時に相手によって自分の読み取る力が養成されたということでしょう。
 「吹毛の剣」というのは、風などに吹かれて揺れている毛をスッパと切る、とても鋭い剣のことです。それは空の心でいるときには、対象をただちに読み取る力があるということも示しており、「碧巌録」にある禅語です。
 棟方志功さんが、年末に友人にお金を借りに行くのですが、借金のことが言い出せなくて、帰るといったところ、友人は、「この寒空にスーツだけでは寒すぎる。僕はコートを二着持っているからひとつ着ていきたまえ。」と着せてくれます。その後家を出て、「とうとう借金のことをいえなかった。」と後悔しながら、コートのポケットに手を入れると紙屑のようなものが手に触り、取り出してみると、紙幣が2枚折れて入れてあったという話です。「あいつばかだな。お札を入れたまま人にコートをくれた。」と思った瞬間に気づいたのです。「あいつ、俺が借金に行ったのがわかったんだ。俺がいい出せなかったから、コートに入れてくれたんだと。」
 その友人が棟方さんの心を理解したのは、「吹毛の剣」だったからでしょう。
 相手の心を読み取るときに、こちらが自由、無心でないと、自分の思い込みという色眼鏡が判断を狂わせます。相手と自分の、両方のこだわりから自由になって物事をはっきりと見極める力は、覚めた心と、純粋な目的意識でしょう。澄んだ目的意識があれば、相手も自分も空の目で見極められるでしょう。中野東禅著「禅語入門」より
 この「吹毛の剣」を稽古に応用できれば、と思い長々と書いてしまいました。よくよく研究すべし、ですね。


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2008年12月08日

月例会

 習成館では、月例会と称して、第2月曜日に稽古の後に道場で親睦会をしています。飲み会です。会費は千円、皆様の持ち込み、差し入れもあり、内輪で盛り上がって剣道談議に花を咲かせる会です。今日の稽古をスクリーンに大きく映して、それを見ながら先生、先輩、兄弟子からアドバイスを受けて、今後の稽古の指針にするという会のことです。何故このようなことを書いたかといいますと、今日稽古にお見えになった方に、「ホームページをみました。大変良くできていますね。でも、予定表の月例会て、何ですか?」と、質問されて、どうゆう会なのかここに書かなくては分からないと思い書いた次第です。今日は今年最後の月例会なので、昇段した方のお祝いの会と考えていたのですが、寂しいことに、、、。でも来年また頑張ろうということで会は終了しました。ちなみに、来年の一月の月例会は、第3月曜にしました。これは、第2月曜が、新宿剣連の新年会と重なった為です。お間違えのないように、多くの方の参加をお待ちしております。私も来年から受験生になります。皆さん一緒に頑張りましょう。求道精進あるのみ。

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2008年12月06日

剣道文化講演会

 剣と人と宇宙と
 講演会を聞いてきました。松井先生は、「剣と宇宙ーその道を極めん」という題で、講演されました。自然とは、宇宙の歴史を記録した古文書のようなものであり、自然を解読するということは、古文書解読と同じである。20世紀までに人類が獲得した「智の体形」のこと、地球システムの中で「人間圏」を作って生きること、人類の未来を現世人類(ホモサピエンス)から考えること、テーマが壮大でした。
 次の伊藤先生の講演は、生まれながらに持っている内なる自然治癒力こそ病気を癒す根本であり、「自ら癒し、生活を律し、暮らしを立て直す文化、養生法の復権」を力説されました。
 ヒポクラテスの箴言「生命はみじかい 技術はながい 機会は去りやすい 経験はだまされやすい 判断はむずかしい」いつの時代でも通じる言葉です。
 Dubos「生というものは、静的なものは何ひとつない冒険である。生の表現はすべて刺激や挑戦に対する反応と言える。すべての細胞は宇宙からの力を感じ、未だ我々にはわからない機構によってそれに反応している。」
 これまたテーマが壮大でした。せっかく良い話を聞いてきたのですから、それを活かす努力をしなくてはいけないと思いました。
 こういう出会いを大切にすることが大切ですよね。耳から入り、耳から出て行くだけでは時間の無駄になってしまいますから。会場の参加者の中には遠くから来ている先生も多数いらっしゃいました。求めて、講演を聞きに来ているのですね。求道精進ですね。負けずに頑張ろっと。

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2008年12月04日

直指人心

 直指人心(じきしにんしん)
 直指とは直にそのものをずばりとらえるの意で、禅のねらうところは「心とはどういうものであるか」と知ろうとするものではなく、ずばり自らの心の本体を自らでとらえることによって、自性を徹底発見することをもってまず出発とする。禅ではそれを「知る」といわずに「見る」という。事物を客観的に眺めてこれを知るのではなく、そのままずばり「なり切る」ことによってそのものと一体となり、その物の内からそれをとらえる。そのように純粋直観でとらえることを「見る」という。
 一遍上人が、法燈国師という禅師から「お前はよく念仏三昧を称えるが、その念仏の真髄を歌で示してみなされ」言われ、一遍は一句を差し出した。
 「称うれば我も仏もなかりけり、ただ南無阿弥陀仏の声ばかりぞする」
と、見事念仏三昧のギリギリを歌に尽くしたようにみえた。
ところが、これをじっと見ていた禅師、
「ン、悪くはない。しかしまだ徹底しておらん、なり切っていない」
と言って、今一度考え直すようすすめたが、さすがの一遍もどうしようもなく行き詰まってしまった。
 数年経ってやっとその真髄に触れ、自ら筆を取って
「称うれば我も仏もなかりけり、ただ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
としたためて師に差し出した。それを見た禅師は
「うんよく見た。これでよし」
と一遍の見性を許した。
 「なり切った当体」と「説明」とははるかにへだたるものがあることは、この話によってもわかるとおりである。 崎山崇源著「禅の教え」p141より

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2008年12月03日

明鏡止水

  澄めば澄む 澄まねば澄まぬ 我が心 
    澄ませば清き 月も宿らん 「禅林世語集」

 心という鏡はもともと清浄なものであるが、雑多な煩悩妄想によって曇らされ、そのために、ものをそのまますなおに映すことが出来ず、たとえ映ったにしてもはっきりと見えないため、しばしば判断を誤る。その曇りを取り除くには心を静め、本来の清浄な心に立ち返ることが第一とされる。
 水に映る月影も水が静止していれば見事に映るが、動けば動くほど千々に散り乱れてしまう。心を磨かれた鏡のように、澄み切った静止した水のようにするには、常に磨くとともに静かに安定させるのが何よりで、座禅の功徳は「一寸坐れば一寸の仏」と古人も言われているように、身をもってまず正しい方法で呼吸を調え、坐ってみるよりほかはない。
 心の平静ということは大事なことだが、ただそれだけが禅の最終目標ではない。せめて明鏡止水の如く常に淡々とした心境でありたい。
         崎山崇源著「禅の教え」より

  


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2008年12月01日

先々之事

7c6c48cf.jpg 剣道で重視する先々の技について、柳生十兵衛は次のように宗矩の言葉を書き留めています。
 これ(先々)が勝つときの極意である。兵法の最高である。習いの数々もここに到達するためのものである。ここに到達すれば、習ったことはみな非(間違い)となり、下手なやり方である。下手だと知りながら、高望みするよりは、下手なやり方である。習いとは、捨てながら捨てない習いである。習いを用いず自然に習いに一致すること、意識せずに到達すること、これが先々である。
 自分の心を敵の心に置き換えて仕合をすれば、早く思い始めたほうが勝つのである。無心に仕掛けて、無心に勝ち、是非の分別も入れず、初一念早いのが、先々の勝ち方である。善も悪も一つである。この心は、弛むものであり、抜けるものである。気を抜くまいとすれば、固くなってしまう。これ(先々)を可能にするのは、「指目(初一念)」、「西江水(尻を張る)」である。
 初一念の起こり始めの根本は、心である。この心を「西江水」に置いてみれば、「初一念」の起こるところが、「先々」と勝てるところである。起こる「初一念」を「指目」という。心は念の本なので、念が先であり、心が先である。「初一念」は、技の先である。したがって「先々」である。これが最高の極意である。
 「初一念」は、技の先である。「初一念」に、間断のない打ちを「無拍子」というのである。心を「先性」という心得がある。心の最高であると理解できる。「空先」というものも心である。平常心である。  「禅の思想と剣術」 p300より

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