2017年08月31日
道を求めて―武士道とキリスト教
ネットで笹森先生の対談がありましたので、備忘の意味で掲載させていただきます。
これは、平成二十七年六月二十一日に、NHKラジオ第二の「宗教の時間」で放送されたもの。
道を求めて―武士道とキリスト教
ナレーター: 今日は、「道を求めて―武士道とキリスト教」と題して、駒場(こまば)エデン教会牧師で、小野派一刀流(剣豪・伊藤一刀斎が考案した剣術)宗家(そうけ)の笹森建美さんにお話頂きます。東京・世田谷にある駒場エデン教会では、礼拝が行われる教会堂で、古武道の稽古が行われています。武士道とキリスト教には、さまざまな共通点があるという笹森さんに、二つの道を歩んだ実感を伺います。聞き手は浅井靖子ディレクターです。
浅井: いつも日曜日礼拝をやっておらっしゃる場所が、武道のお稽古場になるというのは、一見正反対のもののように思うんですが、これは何故そのような二つが一緒になることになったんでございましょうか?
笹森: それは自然の流れですね。家がクリスチャンホームであったということと、それから父親が信仰を持っていると同時に、古い津軽藩の歴史をくむ家庭に生まれて、武道―剣道というものを自然に身に付けていって、武士道と武道とキリスト教というものに仕立てていった、そういう中で自然に育っていって、具体的に牧師になるきっかけというのは別にありましたけれども、剣道を教えることと、牧師であることとは、私自身何も矛盾を感じていない、そういうことですね。むしろ一致している。日本的な精神の象徴である武士道と人々の救いに至るキリスト教というのは、深いところで繋がっている。同じ場所であっても、全然違和感がない筈だ。そういう観点から道場と教会が一つになっていると、そういうことです。
浅井: その武士道と、それからキリスト教の中には、相通ずるものが流れている、という話なんですけど、それはどういうことでしょうか?
笹森: いろんな側面があると思うんですが、キリスト教の聖書の教えの中に、
「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」
(「ヘブライ人への手紙」四章一二節)
神の言葉は、剣よりも鋭くして、一太刀で二つのものを切り分ける、という、そういう教えがあるんですね。それは何を意味しているかというと、神の言葉は非常に鋭くて、剣に喩えれば、一刺しでもって善と悪と、何が善いか、何が悪いかというのを切り分ける。それがキリスト教の教えである。武士道的なものと信仰というのは深いところで繋がっている。この世の中の悪を絶つ、そして善いものを育んでいく。そういう思いがあったんですね。
浅井: 戦いの術である武道が、愛の教えであるキリスト教と通じるというのは非常に意外なように思うんですが。
笹森: 単純に言えば、相手を征服し、やっつけるために武術となっていくわけですけれども、それがだんだん時間が経って、歴史的には変化していくと、単に人を支配するだけでいいんだろうか。人を支配するというのは、どういうことだろうか。力で屈服するんじゃなくて、何か違う部分でお互いにわかり合える。それが本当の人間の理想ではないだろうか、ということを、武術を使う人たちも考えたと思うんですね。ですから人間の精神が高揚していく。それに連れて、それを用いる武道もまた変わっていく。単に人をやっつけるための道具ではなくて、お互いに争わなくてもいい、平和な世界を築くために、武道というものが用いられる筈だ。それが然るべき道だと、大勢の人が考えるに至ったと思うんですね。洋の東西を問わずに、みんな同じような思いを人類はもっていたと思うんですね。
浅井: それは武術というのが、戦いの術を学ぶというところから、武道とか武士道という形で、もっと人間を修練していくという、そういう道へと変わっていった歴史があったということですか?
笹森: そうですね。中国でも日本でもそうだったんですね。例えば「武」という字は、「戈(ほこ)」を収めるというけれども、最古の漢字と言われる亀甲文字の研究から「止」とはもともと足趾(あしあと)の形を示し、「武」とは人が戈を持って行進する合意文字だと記されています。「武」の字は、かつて戦う意味を持っていたにせよ紀元前数世紀にはもう「平和を保つためのもの」という意味に変わってきているわけです。その漢字が伝わった日本では、最初から「武」とは争いを収める意味だと理解されてきました。武の本質は世の中の禍患を絶つことなる。わかりやすく言えば、武の目的は地上から禍を取り除き平穏さを保つこととはっきり教えています。そのために学ぶのが、剣(刀)や弓、なぎなた、柔術なのです。そこで平和を築くことが武の本当の目的じゃないだろうか。そういう高みに達していったと思うんですね。
浅井: そうすると、武道の究極の目的、あるいは教えでいらっしゃる一刀流の到達点は、どういうところになるんですか?
笹森: 一刀流の稽古の目的は、「道具を置くこと。お互いに置くことだ」こう言っているんですけども。
浅井: 武具を、持っているものを置く、
笹森: 単に置くというより、「用いないようにする」という。「武器そのものを無くしてしまう」そういうのが武道の本来の目的。ちょっと矛盾しているようですけど、矛盾じゃなくて逆説ですね。
浅井: と言いますと?
笹森: 本当に戦わなくするために、どうしたらいいだろうかという、そういう精神的な葛藤の中で、ある程度強くならなければいけない。「本当の強さってなんだろうか」と考える時に、何もかも捨てきれる。そういう勇気、そういう決断を持てるのが本当の強さではないだろうか、というところに達して、お互いに理解しあって、そこへいけばいいじゃないか。お互いにそれを認め合える人格をどうやって築いていったらいいだろうかという、その時点で人間は弱いですから、いろんな修行をしたり、稽古が必要だったりして、高みに至った時に、ただ強くではなくて、円満な人格をつくろうという。円満とはなんだろうかというところで、平和とか穏やかさとか、そういうことになっていったと思うんですね。
浅井: 稽古をしていらっしゃるご様子を拝見したんですけれども、型の稽古だと思うんですが、型通りというものではなくて、一つひとつの動きにも意味があり、相手との間合いというんでしょうか、そういうことにもすべて理に適っているというか、理のようなものがある感じがしまして、素人ながら非常に奥深いものだなあというふうに感じて拝見致しましたんですけれども。
笹森: 我々は、「組太刀(くみたち)」という言い方をしているんですね。太刀を組むというふうに。型というと、型通りにやらなければいけないと思ってしまいますけど、「組太刀」というと、始から終わりに至るまで順番に組み立てていくという、そういう概念なんですね。相手の大きさにもよるし、それから調子にもよるし、人と人と合わせていこうと、そういう考え方ですから、型を覚えるというよりは、円刃(まるば)を順番に踏まえていく。
浅井: それはすべてお相手の方の状況に合わせて組み立てていく。
笹森: 自分の調子もありますよね。
浅井: お書きになったものを読みながら凄く興味を持ったのは、武道の中の他者と自己という、自分との関係の問題なんですけれども、お稽古をしていく中でも、相手に勝るというよりも、なんか相手との関係の中に自分を見つめていくというような道があるように感じたんですけれども。
笹森: 地球上に存在するものは、決して個ではあり得ないですよね。人間も動物もそうですけども。相手を如何に見つめるかというのが、武の求めるところでもあるわけですね。
浅井: 武道の求めるものは相手をいかに見つめるか。
笹森: そういうことですね。
浅井: それがどのような、具体的な営みの中で相手を見つめ、自分との関係を探っていくんでしょうか?
笹森: 剣道の場合は、必ず「立ち合い」というのがあるんですね。お互い構えをとって立ち合う。それを古い言葉では、「居合(いあい)」の「居」という言葉を使うわけです。
浅井: 「居る」という、「住居」の「居」という字ですね。
笹森: はい。それは「居」というのは、自分の立場だけではなくて、相手の立場でもあるわけですね。我と汝の関係、汝と我の関係。それが武道の中では「立ち合い」という形で表われますね。立ち合ってお互い構えている中で、相手を見、それから相手を見るのは相手の隙を見るだけではなくて、相手の目を見ることによって、自分の隙が見えていく。
浅井: 自分の姿を見えている
笹森: 見えている。最終的には相手の人格を見なければいけないので、私が相手の人格を見ることによって、私の人格も見えてくる。そういうことになってきますよね。
浅井: でも武道の立ち合いの中で、相手の人格をも見るというところが、ちょっとわからないかも知れないんですけども、その辺りは?
笹森: お互いに立ち合っていると、この人は単に勝とうとしているだけなのか、剣を楽しもうとしているのか、あるいは修行のためにやろうとしているのか。その人の人格によって賤しい剣もあるし、上品な剣もあるし、勝れた剣もあるということですね。人格が必ず見えて出てきます。
浅井: それは相手を通して、自分の人格をも見えてくる。
笹森: 見えてこなくちゃいけない。例えば相手が強そうだなと思うと、こっちは恐くなりますよね。こっちは恐怖心がある。自分にも弱点がある。自分はまだ小さい存在だということ。自然にわかってきますよね。そういう細かなことが立ち合っている中で感じ取られていきますね。
浅井: 絶えず相手を見、相手が見ている自分を見、という形で、絶えず相手との関係において自分があるという意味では、そういう自分のあり方というのは、それは聖書の中でも通ずるものがありますか?
笹森: 一番典型的なのがアダムとイブが罪を犯して、神様の足音を聞いた時に隠れますよね。その時に神様の声がして「お前はどこにいるのか」こう聞かれますよね。そうすると、アダムとイブは木の陰に隠れているわけです。そこで彼らがどこにいるかということを問われているわけですね。どこにいるのか。そこで神様との本当の対話が始まるわけですね。罪を犯してしまったという。それからそれを誤魔化しているという自分のあり方がそこに如実に神様の前で現れてしまう。そこで人間は、素直に謝ればいいんだけども、謝れない。そこで人のせいにする。アダムはイブのせいにする。イブはアダムのせいにするということが起きる。人間関係というのはそういうことが争いのもとになることが多いんじゃないでしょうかね。不和を築いたり、あんまり人を信用できなくなったりする。それに対して自分は素直に自分の存在がこういう存在でしたということが認められて、「ごめんなさい」と言えるかどうかということが大事ですね。それで私が、剣道を教わった時に、父親がよく言ったのは、「剣道をやっていて、仮に面を打たれた時に、痛い、コン畜生と思ってはいけない。それは相手が自分の隙を教えてくれたんだから相手に対して『ありがとう』と言いなさい。そういう思いがなければ、本当の武道家とは言えないよ」と。感謝の思いを持って、今度は自分は隙を作らないぞと、そういうふうに相手の欠点が見えたら、そこは諭してあげなさい。そういう思いになりなさい、ということですね。ですから剣の世界でも、人間関係でも、そうなればいいですよね。
浅井: それは自分のそういう欠点を受け入れると同時に、相手をも受け入れたりという、そんなことにも繋がるものですか?
笹森: 剣道の場合は、お互い稽古しあっていますから、相手の欠点も見えてきますよね。相手のすべてを受け入れてあげる。強い剣道家は、弱い剣道家と稽古をしたくないと。一種の驕りでもあるわけですけど、でもその人を受け入れてあげて、そして男女の差、歳の差もなく、上下の差もなく、お互いに受け合える、そういう人格関係を持てるようにというのが、剣道、特に古流の教えですね。それが相手を敬うということなんだ、というのが、一刀流に馴染みの深い山鹿素行(やまがそこう)(江戸時代前期の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である:1622-1685)という人の教えですね。「武は礼に始まり礼に終わる」というけれども、「礼というのは、相手を敬う気持ちと相手を労る気持ちがないと、礼は始まりませんよ」と教えているわけですね。そういうことですね。相手を受容―受け入れるという。尊敬をもって受け容れるということですね。
浅井: 相手が自分よりも弱いものであっても、取るに足らない剣でしかないものであっても。
笹森: 一人の人間として鄭重に受け容れるということですね。
浅井: 何か武道のお稽古というと、強い人から弱い人までが序列になっているようなイメージがありますけれども、この礼拝堂で行われている稽古の場合はそうではないわけですね。
笹森: それをなるべく見えないようにしたいというのが、私の願いですね。やっぱり一般的な人は、そういうふうに見たがるんですけれども、それを克服してほしい。一刀流では典型的にそうなんでしょうけども、仕方(勝つ方・弟子の位)と打方(負ける方・師の位)というのがありますよね。先生の位と弟子の位。しかし一刀流ではそれを別の言い方をしているんです。「先生と弟子」じゃなくて、「主人と客人」という言い方をしているんです。教わる方がお客さん。ですから、稽古をしている時に、強い人は主人(先生)。主人(先生)は弱い人(お客さん)をほんとに鄭重にもてなして、すべて満足できるように扱ってあげなさいと。それから「教える」ということは、「教わること」であって、「教わる」ということは「教える」ことなんだから、先生側の役をやっていても弟子の立場にいつでもなりなさいということも教えますね。一刀流では、必ず両方の役、仕方(勝つ方・弟子の位)と打方(負ける方・師の位)を代わりばんこ稽古する。そういうようにしていますね。
浅井: 互いにその差があっても、受け容れあって一つのお稽古が成り立っている。そう伺っていくと、なんか礼拝堂の中で稽古がある、同居しているというのもなんか理に適っているというか、わかってくるような気がしますけれども。聖書の中にも「あなたがしてほしいことを、人にもしなさい」というようなことがありましたね。
笹森: 「偉くなりたい人は、人に仕える人になりなさい」そういうことですね。
浅井: そこと通じてくるわけですね。先ほどのアダムとイブの話で、どうしても人のせい、何にか他のせいにして、自分が悪かったということを謝れないというありようだというふうにおっしゃっていましたけれども、その武道を修行していくというのは、何かを絶つというふうに、先ほどもおっしゃっていましたけれども、そういう自分の何かを絶っていくというか、そういうことでもあるんですか?
笹森: 一刀流では、一本目は「一ツ勝(ひとつがち)」と言って、「切落(きりおとし)」というんですが、何を切り落とすかということになると、勿論具体的には相手の気を切り落としているんですけども、お互いの稽古の中で、自分も切り落としなさいと。自分の何を切り落とすのか。今のご質問ですよね。ここにいくつかの要素がありますけれども、自分の弱さを切り落とす。それから疑問点を切り落とす。それからまだまだ不自由分なところを切り落とす。それから「恐れと驕りも切り落としなさい」というんですね。相手が強そうに見えたら恐くなっちゃってどうしようもないんですけれども、それを一生懸命稽古することによって超えていく。恐れを切り捨てなさい。それから強くなったからといって、大抵の人間は驕り高ぶりから、その驕りも切り捨てなさいと。それが「「切落(きりおとし)ですよ」と、こう一刀流で教えていますね。
浅井: 決して相手を倒すという意味で切り落とすということではないんですね。剣の世界が、最終的には「剣を置く、戦わない」というところが最終目標になるとすると、そこに至るまでの自分を修練していくという、その修練の道というのは、具体的にはどういうふうに進んでいくものなんでしょうか?
笹森: 我々武道の世界では、「志道・入門・初心・未熟・熟練・上達・精妙・円満」という段階を表現する言葉があります。道を志しても、どっか辿り着いて、修めなければというので入門する。初心、未熟、熟練と進んで、腕が出てくると、それを「上達」と表現するんです。さらに上手くなって熟練の域に達したらもういいかも知れませんけども、それじゃダメで、何かきらりと光るものが見えてこなければいけないわけで、それを「精妙(せいみよう)」というわけです。精妙(せいみよう)な技を使うようになって、なるほどそうだな、清々しい技だなと思います。しかし剣道はそれだけではダメで、精妙な剣を、さらにいくと「円満な剣になりなさい」。すべてを相手も自分も包み込まれてしまう。ゴツゴツした角張った剣ではなくて、円やかなそういう剣を使いなさい。一刀流の目的は、円やかな剣を使えというんです。「円く柔らかく使え」と教えるんですね。熟練していって、精妙になっていって、さらにそれをもう一歩奥へ入り込んでいって、円やかな剣を使いなさいと。例えば角というものがありますよね。三角があり、四角があり、六角、八角がある。角をどんどん増していくと、一番鋭い角は円になってしまうんですよね。本当の鋭さは、円になっていかなければいけないんですね。鋭さの究極的な目的は円に到達するということですから、どんどん最終的な目標は鋭い剣なんですけれども、鋭ければ鋭いほど円くなっていくということですね。
浅井: そういう逆説は起こる。
笹森: 起こるということですね。これは一刀流に限らず、そういう境地に達した日本の人たちは、禅に入ってみたり、あるいは神道にいってみたり、あるいはキリスト教に触れたり、そしてちょっと違う世界に入り込める、そういうことですね。
浅井: それを何故少し違う世界、剣の世界自体は、宗教とは違うものですね。それがその宗教の世界に入っていくというのは?
笹森: それは人間が持っている本能的なもので、武道の場合は強くなりたい。相手に勝ちたい、優りたいという思いでやっていくんですが、最初のうちは。それが物足りなくなってくるんですね。もうちょっと違う何かあるんじゃないかしら。強くなっていくということは、どういうことだろうかという。そこに達した時に、何か人間を超えたものを求めざるを得なくなってきます。本当に強くなるとわかってくるんです、不思議ですね。自分の欠点も見えてくるし、人間は完全じゃないということがわかってきますし、歳もとりますし、いろんなことが起きて、人間というのは、スーパーマンにはなれないということが明確になってきますから、じゃ人間としてこれから先、どうしたらいいんだろうか。ここへ辿り着く人がいるわけですよね。キリスト教的に言えば、それはこれから先は神様にお任せしてしまおうという。お任せの思いになっていきますね。人間的にいろいろ考え悩むんじゃなくて、これから先は、神様にすべてをお任せしようと。そういう境地になるという。
浅井: 最終的には、
笹森: はい。修行の行というのは、あくまでも手段であって、どこに到達するのかというのが問題ですよね。それを逆説的にいうと、本当の救いというのは、行いではなくて、ただ信ずることですよという、キリスト教的な言葉になりますよね。人間はどうしてもある程度自尊心もあるし、自負心もありますから、自分でもって何とかしたいと思って一生懸命修行したり、行を積んだりするけれども、積めば積むほど行き当たった時に、ここで自己を解放できるかどうかは、相手にお任せできるかどうかですよね。自己への拘りを捨てられて、そしてすべてをお任せしようと。そういう境地になるということですね。
浅井: それは先ほど「修行を積めば積むほど自分の弱さがわかってくる」とおっしゃっていましたけれども、どうしても拭いきれない自分の弱さというものを、ほんとうにギリギリのところまで見つめた時に、その先に出てくる世界ということでしょうか?
笹森: そうですね。キリスト教の世界でいうと、パウロという人がいますけれども、あの人は熱心なユダヤ教を信じていた人で、当然修行も行もしていたんでしょうけども、それをすればするほど自分がわからなくなって、「私の欲する善はこれを行わず、私の欲しない悪をしてしまう。私はなんと惨めな人間だろう」と、そういう叫びになるんですよね。その後にもう一つの叫びがあって、「感謝すべきことに、私のイエスキリストがいた」と。この罪深い私を、イエスさまにお返しし、お任せしてしまおう。そういう境地になられたんですよね。宗教改革としてマルティン・ルターにしてもそうですよね。一生懸命苦行をして、患難苦行を積んで積んで、で到達したのが、いやそうじゃない。私の魂を解放するのはすべてをお任せすることだ、ということに気が付いたんですよね。
浅井: 武道の世界も、修行を積めば積むほど、そういうところに近くなってきますんでしょうか?
笹森: 気持ちになられる筈なんですけどね。ただ単に勝ち負けのことだけを考えていれば、そこでお終いだけれども、人間としてどう生きようかというところまで考えて貰えれば、当然ゴールは見えてくると思うんですね。
浅井: 剣の道が目指すあるべき人間の姿というのはどういう姿なんでしょうか?
笹森: 具体的に、一刀流には、「五点」(五天、五典ともいう)という極意の技ががあるんですね。それは東洋思想の五行説になぞらえて教えているんですけれども、初めは「木」になぞらえて、次は「火」になぞらえて、次は「土」になぞらえ、次は「金」になぞらえて、最終的には「水」になぞらえているんですね。教え方としては、木というのは自然にいつの間にか大きくなってきますよという。火というのは、最初は小さく燃えるけれども、いつのまにか大きくなって焼き尽くしますよと。火は清めですよね。それから土というのは、土用の土で、すべてのものが帰っていくところ。そこで死ぬようだけど、いのちが出てくるところですね。すべてがあたるところ。真ん中。これは土用のウナギというのは季節の真ん中という意味ですよね。土用というのは、中庸を保ちなさいと。常に中庸でありなさいと。それから金というのは、この人間の世界の中で一番輝かしい綺麗なものですよね。で、技では「金翅鳥王剣(きんしちようおうけん)」というんですけど、極楽鳥みたいなものが海に潜んでいる悪い龍を退治する。そういう技なんですけど、ほんとに輝かしい素晴らしいもんですけど、一刀流はそれで終わりじゃないんですね。次ぎに水と出てくるんです。水の教えは、水は低きにつく。高きにつかないで低きにつく。それから水は自ら形を持たないで方円の器に従う。だから本当の剣の道というのは、自己主張をしないで相手に合わせること。決して自分を高みに置かないで低いものになりなさい、という教えなんですね。それがイエスさまの「偉くなりたい人は、人に仕える人になりなさい」という教えとまったく一致し矛盾しないわけですね。偉くなりたい、偉くなりたいと思っていてはダメで、常に人の下にいきなさいと。仕えるものになりなさいと。そして自己主張をしないで、方円の器に従いなさいと、そういうことですよね。
浅井: それは自分自身が、最初は強くなりたい、勝ちたいと思いながらやればやるほど、自分の弱さが見えてくる。その先に自分の力でどれだけ努力しても強くはなりきれないというか、その弱さはなくならないというとこからくる何かなんでしょうか?
笹森: そうですね。だからキルケゴールという人が、「人間の欠点は、自分が強い強いと思って、強くなりすぎて神様を認められなくなっている。自分の弱さも認められなくなってくる。そこに人間の弱さがある」というんですね。
浅井: そうすると、一刀流の目指しているところも最終的には?
笹森: 「綺麗に負けられますか」ということですね。その負けたことを受容できますか、という。それは「剣を置く」という思想にも繋がりますよね。だから自己をギブアップする。自分を投げ出すことができるか。「無念無想」とか、「無我無心」というけども、「無我無心」というのは負けることですよね、自分がね。自分が自己主張をしないということですよね。自己主張をしている間は、自分が強くなりたいんですから自己主張をしているという。自己に拘らないということです。
浅井: 「拘らない」というところまでいくのが本当の、
笹森: 到達点ではないかなと思うんですけれども。矛盾するかも知れませんけれども、キリスト教の中に、「にも関わらず」という考え方があるんですね。ですから本当はそういう理想を求めているんだけど、人間はなかなかそうはいかないんですけれども、我々牧師側からすれば、「にも関わらず、神様が、あなたそれでいいんだよ、と言ってくださる」。多分神様は、「いいよ」と言っていると思うんですね。
浅井: 今日は有り難うございました。
これは、平成二十七年六月二十一日に、NHKラジオ第二の「宗教の時間」で放送されたもの。
道を求めて―武士道とキリスト教
ナレーター: 今日は、「道を求めて―武士道とキリスト教」と題して、駒場(こまば)エデン教会牧師で、小野派一刀流(剣豪・伊藤一刀斎が考案した剣術)宗家(そうけ)の笹森建美さんにお話頂きます。東京・世田谷にある駒場エデン教会では、礼拝が行われる教会堂で、古武道の稽古が行われています。武士道とキリスト教には、さまざまな共通点があるという笹森さんに、二つの道を歩んだ実感を伺います。聞き手は浅井靖子ディレクターです。
浅井: いつも日曜日礼拝をやっておらっしゃる場所が、武道のお稽古場になるというのは、一見正反対のもののように思うんですが、これは何故そのような二つが一緒になることになったんでございましょうか?
笹森: それは自然の流れですね。家がクリスチャンホームであったということと、それから父親が信仰を持っていると同時に、古い津軽藩の歴史をくむ家庭に生まれて、武道―剣道というものを自然に身に付けていって、武士道と武道とキリスト教というものに仕立てていった、そういう中で自然に育っていって、具体的に牧師になるきっかけというのは別にありましたけれども、剣道を教えることと、牧師であることとは、私自身何も矛盾を感じていない、そういうことですね。むしろ一致している。日本的な精神の象徴である武士道と人々の救いに至るキリスト教というのは、深いところで繋がっている。同じ場所であっても、全然違和感がない筈だ。そういう観点から道場と教会が一つになっていると、そういうことです。
浅井: その武士道と、それからキリスト教の中には、相通ずるものが流れている、という話なんですけど、それはどういうことでしょうか?
笹森: いろんな側面があると思うんですが、キリスト教の聖書の教えの中に、
「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」
(「ヘブライ人への手紙」四章一二節)
神の言葉は、剣よりも鋭くして、一太刀で二つのものを切り分ける、という、そういう教えがあるんですね。それは何を意味しているかというと、神の言葉は非常に鋭くて、剣に喩えれば、一刺しでもって善と悪と、何が善いか、何が悪いかというのを切り分ける。それがキリスト教の教えである。武士道的なものと信仰というのは深いところで繋がっている。この世の中の悪を絶つ、そして善いものを育んでいく。そういう思いがあったんですね。
浅井: 戦いの術である武道が、愛の教えであるキリスト教と通じるというのは非常に意外なように思うんですが。
笹森: 単純に言えば、相手を征服し、やっつけるために武術となっていくわけですけれども、それがだんだん時間が経って、歴史的には変化していくと、単に人を支配するだけでいいんだろうか。人を支配するというのは、どういうことだろうか。力で屈服するんじゃなくて、何か違う部分でお互いにわかり合える。それが本当の人間の理想ではないだろうか、ということを、武術を使う人たちも考えたと思うんですね。ですから人間の精神が高揚していく。それに連れて、それを用いる武道もまた変わっていく。単に人をやっつけるための道具ではなくて、お互いに争わなくてもいい、平和な世界を築くために、武道というものが用いられる筈だ。それが然るべき道だと、大勢の人が考えるに至ったと思うんですね。洋の東西を問わずに、みんな同じような思いを人類はもっていたと思うんですね。
浅井: それは武術というのが、戦いの術を学ぶというところから、武道とか武士道という形で、もっと人間を修練していくという、そういう道へと変わっていった歴史があったということですか?
笹森: そうですね。中国でも日本でもそうだったんですね。例えば「武」という字は、「戈(ほこ)」を収めるというけれども、最古の漢字と言われる亀甲文字の研究から「止」とはもともと足趾(あしあと)の形を示し、「武」とは人が戈を持って行進する合意文字だと記されています。「武」の字は、かつて戦う意味を持っていたにせよ紀元前数世紀にはもう「平和を保つためのもの」という意味に変わってきているわけです。その漢字が伝わった日本では、最初から「武」とは争いを収める意味だと理解されてきました。武の本質は世の中の禍患を絶つことなる。わかりやすく言えば、武の目的は地上から禍を取り除き平穏さを保つこととはっきり教えています。そのために学ぶのが、剣(刀)や弓、なぎなた、柔術なのです。そこで平和を築くことが武の本当の目的じゃないだろうか。そういう高みに達していったと思うんですね。
浅井: そうすると、武道の究極の目的、あるいは教えでいらっしゃる一刀流の到達点は、どういうところになるんですか?
笹森: 一刀流の稽古の目的は、「道具を置くこと。お互いに置くことだ」こう言っているんですけども。
浅井: 武具を、持っているものを置く、
笹森: 単に置くというより、「用いないようにする」という。「武器そのものを無くしてしまう」そういうのが武道の本来の目的。ちょっと矛盾しているようですけど、矛盾じゃなくて逆説ですね。
浅井: と言いますと?
笹森: 本当に戦わなくするために、どうしたらいいだろうかという、そういう精神的な葛藤の中で、ある程度強くならなければいけない。「本当の強さってなんだろうか」と考える時に、何もかも捨てきれる。そういう勇気、そういう決断を持てるのが本当の強さではないだろうか、というところに達して、お互いに理解しあって、そこへいけばいいじゃないか。お互いにそれを認め合える人格をどうやって築いていったらいいだろうかという、その時点で人間は弱いですから、いろんな修行をしたり、稽古が必要だったりして、高みに至った時に、ただ強くではなくて、円満な人格をつくろうという。円満とはなんだろうかというところで、平和とか穏やかさとか、そういうことになっていったと思うんですね。
浅井: 稽古をしていらっしゃるご様子を拝見したんですけれども、型の稽古だと思うんですが、型通りというものではなくて、一つひとつの動きにも意味があり、相手との間合いというんでしょうか、そういうことにもすべて理に適っているというか、理のようなものがある感じがしまして、素人ながら非常に奥深いものだなあというふうに感じて拝見致しましたんですけれども。
笹森: 我々は、「組太刀(くみたち)」という言い方をしているんですね。太刀を組むというふうに。型というと、型通りにやらなければいけないと思ってしまいますけど、「組太刀」というと、始から終わりに至るまで順番に組み立てていくという、そういう概念なんですね。相手の大きさにもよるし、それから調子にもよるし、人と人と合わせていこうと、そういう考え方ですから、型を覚えるというよりは、円刃(まるば)を順番に踏まえていく。
浅井: それはすべてお相手の方の状況に合わせて組み立てていく。
笹森: 自分の調子もありますよね。
浅井: お書きになったものを読みながら凄く興味を持ったのは、武道の中の他者と自己という、自分との関係の問題なんですけれども、お稽古をしていく中でも、相手に勝るというよりも、なんか相手との関係の中に自分を見つめていくというような道があるように感じたんですけれども。
笹森: 地球上に存在するものは、決して個ではあり得ないですよね。人間も動物もそうですけども。相手を如何に見つめるかというのが、武の求めるところでもあるわけですね。
浅井: 武道の求めるものは相手をいかに見つめるか。
笹森: そういうことですね。
浅井: それがどのような、具体的な営みの中で相手を見つめ、自分との関係を探っていくんでしょうか?
笹森: 剣道の場合は、必ず「立ち合い」というのがあるんですね。お互い構えをとって立ち合う。それを古い言葉では、「居合(いあい)」の「居」という言葉を使うわけです。
浅井: 「居る」という、「住居」の「居」という字ですね。
笹森: はい。それは「居」というのは、自分の立場だけではなくて、相手の立場でもあるわけですね。我と汝の関係、汝と我の関係。それが武道の中では「立ち合い」という形で表われますね。立ち合ってお互い構えている中で、相手を見、それから相手を見るのは相手の隙を見るだけではなくて、相手の目を見ることによって、自分の隙が見えていく。
浅井: 自分の姿を見えている
笹森: 見えている。最終的には相手の人格を見なければいけないので、私が相手の人格を見ることによって、私の人格も見えてくる。そういうことになってきますよね。
浅井: でも武道の立ち合いの中で、相手の人格をも見るというところが、ちょっとわからないかも知れないんですけども、その辺りは?
笹森: お互いに立ち合っていると、この人は単に勝とうとしているだけなのか、剣を楽しもうとしているのか、あるいは修行のためにやろうとしているのか。その人の人格によって賤しい剣もあるし、上品な剣もあるし、勝れた剣もあるということですね。人格が必ず見えて出てきます。
浅井: それは相手を通して、自分の人格をも見えてくる。
笹森: 見えてこなくちゃいけない。例えば相手が強そうだなと思うと、こっちは恐くなりますよね。こっちは恐怖心がある。自分にも弱点がある。自分はまだ小さい存在だということ。自然にわかってきますよね。そういう細かなことが立ち合っている中で感じ取られていきますね。
浅井: 絶えず相手を見、相手が見ている自分を見、という形で、絶えず相手との関係において自分があるという意味では、そういう自分のあり方というのは、それは聖書の中でも通ずるものがありますか?
笹森: 一番典型的なのがアダムとイブが罪を犯して、神様の足音を聞いた時に隠れますよね。その時に神様の声がして「お前はどこにいるのか」こう聞かれますよね。そうすると、アダムとイブは木の陰に隠れているわけです。そこで彼らがどこにいるかということを問われているわけですね。どこにいるのか。そこで神様との本当の対話が始まるわけですね。罪を犯してしまったという。それからそれを誤魔化しているという自分のあり方がそこに如実に神様の前で現れてしまう。そこで人間は、素直に謝ればいいんだけども、謝れない。そこで人のせいにする。アダムはイブのせいにする。イブはアダムのせいにするということが起きる。人間関係というのはそういうことが争いのもとになることが多いんじゃないでしょうかね。不和を築いたり、あんまり人を信用できなくなったりする。それに対して自分は素直に自分の存在がこういう存在でしたということが認められて、「ごめんなさい」と言えるかどうかということが大事ですね。それで私が、剣道を教わった時に、父親がよく言ったのは、「剣道をやっていて、仮に面を打たれた時に、痛い、コン畜生と思ってはいけない。それは相手が自分の隙を教えてくれたんだから相手に対して『ありがとう』と言いなさい。そういう思いがなければ、本当の武道家とは言えないよ」と。感謝の思いを持って、今度は自分は隙を作らないぞと、そういうふうに相手の欠点が見えたら、そこは諭してあげなさい。そういう思いになりなさい、ということですね。ですから剣の世界でも、人間関係でも、そうなればいいですよね。
浅井: それは自分のそういう欠点を受け入れると同時に、相手をも受け入れたりという、そんなことにも繋がるものですか?
笹森: 剣道の場合は、お互い稽古しあっていますから、相手の欠点も見えてきますよね。相手のすべてを受け入れてあげる。強い剣道家は、弱い剣道家と稽古をしたくないと。一種の驕りでもあるわけですけど、でもその人を受け入れてあげて、そして男女の差、歳の差もなく、上下の差もなく、お互いに受け合える、そういう人格関係を持てるようにというのが、剣道、特に古流の教えですね。それが相手を敬うということなんだ、というのが、一刀流に馴染みの深い山鹿素行(やまがそこう)(江戸時代前期の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である:1622-1685)という人の教えですね。「武は礼に始まり礼に終わる」というけれども、「礼というのは、相手を敬う気持ちと相手を労る気持ちがないと、礼は始まりませんよ」と教えているわけですね。そういうことですね。相手を受容―受け入れるという。尊敬をもって受け容れるということですね。
浅井: 相手が自分よりも弱いものであっても、取るに足らない剣でしかないものであっても。
笹森: 一人の人間として鄭重に受け容れるということですね。
浅井: 何か武道のお稽古というと、強い人から弱い人までが序列になっているようなイメージがありますけれども、この礼拝堂で行われている稽古の場合はそうではないわけですね。
笹森: それをなるべく見えないようにしたいというのが、私の願いですね。やっぱり一般的な人は、そういうふうに見たがるんですけれども、それを克服してほしい。一刀流では典型的にそうなんでしょうけども、仕方(勝つ方・弟子の位)と打方(負ける方・師の位)というのがありますよね。先生の位と弟子の位。しかし一刀流ではそれを別の言い方をしているんです。「先生と弟子」じゃなくて、「主人と客人」という言い方をしているんです。教わる方がお客さん。ですから、稽古をしている時に、強い人は主人(先生)。主人(先生)は弱い人(お客さん)をほんとに鄭重にもてなして、すべて満足できるように扱ってあげなさいと。それから「教える」ということは、「教わること」であって、「教わる」ということは「教える」ことなんだから、先生側の役をやっていても弟子の立場にいつでもなりなさいということも教えますね。一刀流では、必ず両方の役、仕方(勝つ方・弟子の位)と打方(負ける方・師の位)を代わりばんこ稽古する。そういうようにしていますね。
浅井: 互いにその差があっても、受け容れあって一つのお稽古が成り立っている。そう伺っていくと、なんか礼拝堂の中で稽古がある、同居しているというのもなんか理に適っているというか、わかってくるような気がしますけれども。聖書の中にも「あなたがしてほしいことを、人にもしなさい」というようなことがありましたね。
笹森: 「偉くなりたい人は、人に仕える人になりなさい」そういうことですね。
浅井: そこと通じてくるわけですね。先ほどのアダムとイブの話で、どうしても人のせい、何にか他のせいにして、自分が悪かったということを謝れないというありようだというふうにおっしゃっていましたけれども、その武道を修行していくというのは、何かを絶つというふうに、先ほどもおっしゃっていましたけれども、そういう自分の何かを絶っていくというか、そういうことでもあるんですか?
笹森: 一刀流では、一本目は「一ツ勝(ひとつがち)」と言って、「切落(きりおとし)」というんですが、何を切り落とすかということになると、勿論具体的には相手の気を切り落としているんですけども、お互いの稽古の中で、自分も切り落としなさいと。自分の何を切り落とすのか。今のご質問ですよね。ここにいくつかの要素がありますけれども、自分の弱さを切り落とす。それから疑問点を切り落とす。それからまだまだ不自由分なところを切り落とす。それから「恐れと驕りも切り落としなさい」というんですね。相手が強そうに見えたら恐くなっちゃってどうしようもないんですけれども、それを一生懸命稽古することによって超えていく。恐れを切り捨てなさい。それから強くなったからといって、大抵の人間は驕り高ぶりから、その驕りも切り捨てなさいと。それが「「切落(きりおとし)ですよ」と、こう一刀流で教えていますね。
浅井: 決して相手を倒すという意味で切り落とすということではないんですね。剣の世界が、最終的には「剣を置く、戦わない」というところが最終目標になるとすると、そこに至るまでの自分を修練していくという、その修練の道というのは、具体的にはどういうふうに進んでいくものなんでしょうか?
笹森: 我々武道の世界では、「志道・入門・初心・未熟・熟練・上達・精妙・円満」という段階を表現する言葉があります。道を志しても、どっか辿り着いて、修めなければというので入門する。初心、未熟、熟練と進んで、腕が出てくると、それを「上達」と表現するんです。さらに上手くなって熟練の域に達したらもういいかも知れませんけども、それじゃダメで、何かきらりと光るものが見えてこなければいけないわけで、それを「精妙(せいみよう)」というわけです。精妙(せいみよう)な技を使うようになって、なるほどそうだな、清々しい技だなと思います。しかし剣道はそれだけではダメで、精妙な剣を、さらにいくと「円満な剣になりなさい」。すべてを相手も自分も包み込まれてしまう。ゴツゴツした角張った剣ではなくて、円やかなそういう剣を使いなさい。一刀流の目的は、円やかな剣を使えというんです。「円く柔らかく使え」と教えるんですね。熟練していって、精妙になっていって、さらにそれをもう一歩奥へ入り込んでいって、円やかな剣を使いなさいと。例えば角というものがありますよね。三角があり、四角があり、六角、八角がある。角をどんどん増していくと、一番鋭い角は円になってしまうんですよね。本当の鋭さは、円になっていかなければいけないんですね。鋭さの究極的な目的は円に到達するということですから、どんどん最終的な目標は鋭い剣なんですけれども、鋭ければ鋭いほど円くなっていくということですね。
浅井: そういう逆説は起こる。
笹森: 起こるということですね。これは一刀流に限らず、そういう境地に達した日本の人たちは、禅に入ってみたり、あるいは神道にいってみたり、あるいはキリスト教に触れたり、そしてちょっと違う世界に入り込める、そういうことですね。
浅井: それを何故少し違う世界、剣の世界自体は、宗教とは違うものですね。それがその宗教の世界に入っていくというのは?
笹森: それは人間が持っている本能的なもので、武道の場合は強くなりたい。相手に勝ちたい、優りたいという思いでやっていくんですが、最初のうちは。それが物足りなくなってくるんですね。もうちょっと違う何かあるんじゃないかしら。強くなっていくということは、どういうことだろうかという。そこに達した時に、何か人間を超えたものを求めざるを得なくなってきます。本当に強くなるとわかってくるんです、不思議ですね。自分の欠点も見えてくるし、人間は完全じゃないということがわかってきますし、歳もとりますし、いろんなことが起きて、人間というのは、スーパーマンにはなれないということが明確になってきますから、じゃ人間としてこれから先、どうしたらいいんだろうか。ここへ辿り着く人がいるわけですよね。キリスト教的に言えば、それはこれから先は神様にお任せしてしまおうという。お任せの思いになっていきますね。人間的にいろいろ考え悩むんじゃなくて、これから先は、神様にすべてをお任せしようと。そういう境地になるという。
浅井: 最終的には、
笹森: はい。修行の行というのは、あくまでも手段であって、どこに到達するのかというのが問題ですよね。それを逆説的にいうと、本当の救いというのは、行いではなくて、ただ信ずることですよという、キリスト教的な言葉になりますよね。人間はどうしてもある程度自尊心もあるし、自負心もありますから、自分でもって何とかしたいと思って一生懸命修行したり、行を積んだりするけれども、積めば積むほど行き当たった時に、ここで自己を解放できるかどうかは、相手にお任せできるかどうかですよね。自己への拘りを捨てられて、そしてすべてをお任せしようと。そういう境地になるということですね。
浅井: それは先ほど「修行を積めば積むほど自分の弱さがわかってくる」とおっしゃっていましたけれども、どうしても拭いきれない自分の弱さというものを、ほんとうにギリギリのところまで見つめた時に、その先に出てくる世界ということでしょうか?
笹森: そうですね。キリスト教の世界でいうと、パウロという人がいますけれども、あの人は熱心なユダヤ教を信じていた人で、当然修行も行もしていたんでしょうけども、それをすればするほど自分がわからなくなって、「私の欲する善はこれを行わず、私の欲しない悪をしてしまう。私はなんと惨めな人間だろう」と、そういう叫びになるんですよね。その後にもう一つの叫びがあって、「感謝すべきことに、私のイエスキリストがいた」と。この罪深い私を、イエスさまにお返しし、お任せしてしまおう。そういう境地になられたんですよね。宗教改革としてマルティン・ルターにしてもそうですよね。一生懸命苦行をして、患難苦行を積んで積んで、で到達したのが、いやそうじゃない。私の魂を解放するのはすべてをお任せすることだ、ということに気が付いたんですよね。
浅井: 武道の世界も、修行を積めば積むほど、そういうところに近くなってきますんでしょうか?
笹森: 気持ちになられる筈なんですけどね。ただ単に勝ち負けのことだけを考えていれば、そこでお終いだけれども、人間としてどう生きようかというところまで考えて貰えれば、当然ゴールは見えてくると思うんですね。
浅井: 剣の道が目指すあるべき人間の姿というのはどういう姿なんでしょうか?
笹森: 具体的に、一刀流には、「五点」(五天、五典ともいう)という極意の技ががあるんですね。それは東洋思想の五行説になぞらえて教えているんですけれども、初めは「木」になぞらえて、次は「火」になぞらえて、次は「土」になぞらえ、次は「金」になぞらえて、最終的には「水」になぞらえているんですね。教え方としては、木というのは自然にいつの間にか大きくなってきますよという。火というのは、最初は小さく燃えるけれども、いつのまにか大きくなって焼き尽くしますよと。火は清めですよね。それから土というのは、土用の土で、すべてのものが帰っていくところ。そこで死ぬようだけど、いのちが出てくるところですね。すべてがあたるところ。真ん中。これは土用のウナギというのは季節の真ん中という意味ですよね。土用というのは、中庸を保ちなさいと。常に中庸でありなさいと。それから金というのは、この人間の世界の中で一番輝かしい綺麗なものですよね。で、技では「金翅鳥王剣(きんしちようおうけん)」というんですけど、極楽鳥みたいなものが海に潜んでいる悪い龍を退治する。そういう技なんですけど、ほんとに輝かしい素晴らしいもんですけど、一刀流はそれで終わりじゃないんですね。次ぎに水と出てくるんです。水の教えは、水は低きにつく。高きにつかないで低きにつく。それから水は自ら形を持たないで方円の器に従う。だから本当の剣の道というのは、自己主張をしないで相手に合わせること。決して自分を高みに置かないで低いものになりなさい、という教えなんですね。それがイエスさまの「偉くなりたい人は、人に仕える人になりなさい」という教えとまったく一致し矛盾しないわけですね。偉くなりたい、偉くなりたいと思っていてはダメで、常に人の下にいきなさいと。仕えるものになりなさいと。そして自己主張をしないで、方円の器に従いなさいと、そういうことですよね。
浅井: それは自分自身が、最初は強くなりたい、勝ちたいと思いながらやればやるほど、自分の弱さが見えてくる。その先に自分の力でどれだけ努力しても強くはなりきれないというか、その弱さはなくならないというとこからくる何かなんでしょうか?
笹森: そうですね。だからキルケゴールという人が、「人間の欠点は、自分が強い強いと思って、強くなりすぎて神様を認められなくなっている。自分の弱さも認められなくなってくる。そこに人間の弱さがある」というんですね。
浅井: そうすると、一刀流の目指しているところも最終的には?
笹森: 「綺麗に負けられますか」ということですね。その負けたことを受容できますか、という。それは「剣を置く」という思想にも繋がりますよね。だから自己をギブアップする。自分を投げ出すことができるか。「無念無想」とか、「無我無心」というけども、「無我無心」というのは負けることですよね、自分がね。自分が自己主張をしないということですよね。自己主張をしている間は、自分が強くなりたいんですから自己主張をしているという。自己に拘らないということです。
浅井: 「拘らない」というところまでいくのが本当の、
笹森: 到達点ではないかなと思うんですけれども。矛盾するかも知れませんけれども、キリスト教の中に、「にも関わらず」という考え方があるんですね。ですから本当はそういう理想を求めているんだけど、人間はなかなかそうはいかないんですけれども、我々牧師側からすれば、「にも関わらず、神様が、あなたそれでいいんだよ、と言ってくださる」。多分神様は、「いいよ」と言っていると思うんですね。
浅井: 今日は有り難うございました。