2008年11月18日
心にまよふ こころ成けり
こころより こころをえんと 意得(こころえ)て
心にまよふ こころ成けり
「一遍上人語録」より
人間の心とは、とかく頼りないものである。心に固執すればするほど心は頼りなく、定めがなくなっていくから、困ったものである。心を鈍化しようと試みれば、かえって心の呪縛のとりこになるだけで、悟り的な心境とはますます遠くなる。明鏡止水とはまずいくことがない、心中は迷いの濁りでいっぱいになってしまう。
だから古人はたいてい、心から離れることが肝心だと説いた。無念無想、離念こそが本当の静謐(せいひつ)と思うがままの対応を可能にする要諦だとみなした。
たとえば剣の達人や芸の達者がことあるごとに強調するのが、無念無想の境地である。心がどれほど行為の妨げになるか、心は妄念のるつぼであり、そういう心のとらわれを放念したところに、真の自在な能力を操ることが可能になる、という。一遍の離念の勧めは、私たち現代人がおちいりやすい自意識過剰の弊にとっても有効な戒めとなるであろう。 百瀬明治著 「名僧百言」より
心にまよふ こころ成けり
「一遍上人語録」より
人間の心とは、とかく頼りないものである。心に固執すればするほど心は頼りなく、定めがなくなっていくから、困ったものである。心を鈍化しようと試みれば、かえって心の呪縛のとりこになるだけで、悟り的な心境とはますます遠くなる。明鏡止水とはまずいくことがない、心中は迷いの濁りでいっぱいになってしまう。
だから古人はたいてい、心から離れることが肝心だと説いた。無念無想、離念こそが本当の静謐(せいひつ)と思うがままの対応を可能にする要諦だとみなした。
たとえば剣の達人や芸の達者がことあるごとに強調するのが、無念無想の境地である。心がどれほど行為の妨げになるか、心は妄念のるつぼであり、そういう心のとらわれを放念したところに、真の自在な能力を操ることが可能になる、という。一遍の離念の勧めは、私たち現代人がおちいりやすい自意識過剰の弊にとっても有効な戒めとなるであろう。 百瀬明治著 「名僧百言」より