2011年02月22日

只管、ただ

 刀耕清話p95〜98より。

 「ただ」という言葉には、<目的意識をもたないで>、<なんとなく>、あるいは<漫然と>など日常よく使われる意味もありますが、<ひたすらに>とか<余分な想いをまじえずに>という意味で用いられています。「只管打坐」(しかんたざ)<ただ坐れ>という言葉がありますが、「只管」という言葉も人生や剣道の極意を表わす「ただ」と同じ意味で用いられています。
 禅の修行のみならず剣道や人生においても、この「ただ」という境地は非常に高いものであり、そこに到達するためにはそれなりの修行が必要であるのはいうまでもありません。「ただ」の境地について、刀耕先生は次のように説かれていらっしゃいます。

 こうしたら何か得られるんじゃないかとか、何も考えずに、一切捨てて、ただ切り込む。だから、この「ただ」が修行なんだ。これが極意だね。坐禅だって、ただ坐ればいい。坐禅を組んで悟りを開こうとか、なんとかかんとか、そんなものは要りはしない。ただ坐ればいい。法に従って、「ただ」やればいい。それを生活に入れて、勉強する時は「ただ」すればいい。仕事だって「ただ」打ち込んでいればいい。右顧左眄(うこさべん)しない。だから、その「ただ」と言う事を自得するのが剣道だ。「太刀の下こそ地獄なれ」。地獄の所で「ただ」切り込めばいい。「ただ切り込めよ神妙の剣」。
(中略)
剣道の気合というものは、この「切り結ぶ刀の下こそ地獄なれ、ただ切り込めよ神妙の剣」。「ただ」という事を腹に入れてしっかり修行するように。
(中略)
「ただ」切り返しをする。「ただ」稽古をする。「ただ」形をやる。「ただ」坐る。この「ただ」という所を自得するように。この「ただ」の中に何でも入っている。その「ただ」が「案山子」の道である。ただ立っているけれども雀が来ない。


 この重要な教えを要約すれば、両刃鉾を交えた地獄の間から、ただ無心に相手に切り込んでいくことを習うのが剣道の修行目的である、ということになります。これは真の捨身の稽古であるといってもよいでありましょう。この境地の自得に向けて正しい精進を続けていくということは、同時に人間形成の道を歩むことでもあるということを忘れないようにしたいものです。(刀耕清話p95〜98より)


 柴田衛守(習成館創始者)が詠んだ歌

 器用をも  達者も得手も  たのむまじ
           ただねり込みて  功をつむべし




shuseikan at 22:38│Comments(0)

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