2009年01月01日

謹賀新年

 旧年中は一方ならぬご厚情を賜りまして誠に有難うございました。
 本年も習成館、鞍馬流が益々発展するよう頑張りますので、昨年同様ご指導ご鞭撻の程何卒お願い申し上げます。
 皆様方のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
 平成二十一年 元旦 習成館館長 柴田章雄

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2008年12月18日

今日は昨日の我に勝つ

 「禅の思想と剣術」p314に、柳生十兵衛が、『月之抄』の末尾で次のように極意について総括しているのが載っています。以下、訳文です。

 この無心の心を散らさず、千手万手、事理ともに無心の心にさせるのである。相手から、動けば、この心がなすのである。この心のままに、五体を随わせるがよい。勝負に拘泥してはいけない。この心が勝つ処である。打つのも、合わせるのも、付けるのも、引くのも、懸かるのも、外すのも、この心にまかせて、是非善悪を捨て置くのがよい。捨て置いた、無心の心を無見と心得るがよい。何もかも捨て切って、ない心であるが、死んでしまった様ではなくて、敵が動けば、それに随って、この心が勝負を分け、敵が無心であれば、こちらの心も無心で敵と一体と成るのである。一体になったら、勝負はなくなり無事であり、無心である。心がないのだが、ないとはいえない処が無見である。これは千手観音の体である。摩利支尊天が出現する処であると知らねばならぬ。

 著者の解説、柳生十兵衛が把握した剣禅一如の極意とは無心の心にほかなりません。摩利支天は日光を神格化したインドの神ですが、日本では武士の守本尊とされてきました。沢庵禅師の剣禅一如の教えが柳生流に浸透していたことがわかります。「今日は昨日の我に勝つ」という柳生新陰流の教えは、生涯にわたって剣術修行、自己研鑽に努める必要性を説いた教えです。この教えは現代の剣道修行に受け継がれています。「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」、昨日よりは上手に成り、今日よりは上手に成りて、一生日々仕上ぐる事也。是れも果てなきと云う事也。

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2008年12月10日

吹毛の剣

 風邪をひいてしまいました。この年で、声変わりしています。皆さん体調不良なのか、忘年会なのか、私の体調を思ってか、今日の稽古にいらっしゃった人数は少なかったです。お忙しいことと思いますが、是非稽古に励んでください。
 禅語入門という本の中に、「吹毛の剣」(すいもうのけん)という禅語がありました。大切なことをまっすぐに受け取る力、ことの本質に気づく力のことです。
 指導者というものは、部下の力量や性格を咄嗟に見極める力量を要求されます。仮に日常の対人関係で、相手の心のかすかな動きが見えてきたら、相手を読み取る力がついたということであり、同時に相手によって自分の読み取る力が養成されたということでしょう。
 「吹毛の剣」というのは、風などに吹かれて揺れている毛をスッパと切る、とても鋭い剣のことです。それは空の心でいるときには、対象をただちに読み取る力があるということも示しており、「碧巌録」にある禅語です。
 棟方志功さんが、年末に友人にお金を借りに行くのですが、借金のことが言い出せなくて、帰るといったところ、友人は、「この寒空にスーツだけでは寒すぎる。僕はコートを二着持っているからひとつ着ていきたまえ。」と着せてくれます。その後家を出て、「とうとう借金のことをいえなかった。」と後悔しながら、コートのポケットに手を入れると紙屑のようなものが手に触り、取り出してみると、紙幣が2枚折れて入れてあったという話です。「あいつばかだな。お札を入れたまま人にコートをくれた。」と思った瞬間に気づいたのです。「あいつ、俺が借金に行ったのがわかったんだ。俺がいい出せなかったから、コートに入れてくれたんだと。」
 その友人が棟方さんの心を理解したのは、「吹毛の剣」だったからでしょう。
 相手の心を読み取るときに、こちらが自由、無心でないと、自分の思い込みという色眼鏡が判断を狂わせます。相手と自分の、両方のこだわりから自由になって物事をはっきりと見極める力は、覚めた心と、純粋な目的意識でしょう。澄んだ目的意識があれば、相手も自分も空の目で見極められるでしょう。中野東禅著「禅語入門」より
 この「吹毛の剣」を稽古に応用できれば、と思い長々と書いてしまいました。よくよく研究すべし、ですね。


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2008年12月08日

月例会

 習成館では、月例会と称して、第2月曜日に稽古の後に道場で親睦会をしています。飲み会です。会費は千円、皆様の持ち込み、差し入れもあり、内輪で盛り上がって剣道談議に花を咲かせる会です。今日の稽古をスクリーンに大きく映して、それを見ながら先生、先輩、兄弟子からアドバイスを受けて、今後の稽古の指針にするという会のことです。何故このようなことを書いたかといいますと、今日稽古にお見えになった方に、「ホームページをみました。大変良くできていますね。でも、予定表の月例会て、何ですか?」と、質問されて、どうゆう会なのかここに書かなくては分からないと思い書いた次第です。今日は今年最後の月例会なので、昇段した方のお祝いの会と考えていたのですが、寂しいことに、、、。でも来年また頑張ろうということで会は終了しました。ちなみに、来年の一月の月例会は、第3月曜にしました。これは、第2月曜が、新宿剣連の新年会と重なった為です。お間違えのないように、多くの方の参加をお待ちしております。私も来年から受験生になります。皆さん一緒に頑張りましょう。求道精進あるのみ。

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2008年12月06日

剣道文化講演会

 剣と人と宇宙と
 講演会を聞いてきました。松井先生は、「剣と宇宙ーその道を極めん」という題で、講演されました。自然とは、宇宙の歴史を記録した古文書のようなものであり、自然を解読するということは、古文書解読と同じである。20世紀までに人類が獲得した「智の体形」のこと、地球システムの中で「人間圏」を作って生きること、人類の未来を現世人類(ホモサピエンス)から考えること、テーマが壮大でした。
 次の伊藤先生の講演は、生まれながらに持っている内なる自然治癒力こそ病気を癒す根本であり、「自ら癒し、生活を律し、暮らしを立て直す文化、養生法の復権」を力説されました。
 ヒポクラテスの箴言「生命はみじかい 技術はながい 機会は去りやすい 経験はだまされやすい 判断はむずかしい」いつの時代でも通じる言葉です。
 Dubos「生というものは、静的なものは何ひとつない冒険である。生の表現はすべて刺激や挑戦に対する反応と言える。すべての細胞は宇宙からの力を感じ、未だ我々にはわからない機構によってそれに反応している。」
 これまたテーマが壮大でした。せっかく良い話を聞いてきたのですから、それを活かす努力をしなくてはいけないと思いました。
 こういう出会いを大切にすることが大切ですよね。耳から入り、耳から出て行くだけでは時間の無駄になってしまいますから。会場の参加者の中には遠くから来ている先生も多数いらっしゃいました。求めて、講演を聞きに来ているのですね。求道精進ですね。負けずに頑張ろっと。

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2008年12月04日

直指人心

 直指人心(じきしにんしん)
 直指とは直にそのものをずばりとらえるの意で、禅のねらうところは「心とはどういうものであるか」と知ろうとするものではなく、ずばり自らの心の本体を自らでとらえることによって、自性を徹底発見することをもってまず出発とする。禅ではそれを「知る」といわずに「見る」という。事物を客観的に眺めてこれを知るのではなく、そのままずばり「なり切る」ことによってそのものと一体となり、その物の内からそれをとらえる。そのように純粋直観でとらえることを「見る」という。
 一遍上人が、法燈国師という禅師から「お前はよく念仏三昧を称えるが、その念仏の真髄を歌で示してみなされ」言われ、一遍は一句を差し出した。
 「称うれば我も仏もなかりけり、ただ南無阿弥陀仏の声ばかりぞする」
と、見事念仏三昧のギリギリを歌に尽くしたようにみえた。
ところが、これをじっと見ていた禅師、
「ン、悪くはない。しかしまだ徹底しておらん、なり切っていない」
と言って、今一度考え直すようすすめたが、さすがの一遍もどうしようもなく行き詰まってしまった。
 数年経ってやっとその真髄に触れ、自ら筆を取って
「称うれば我も仏もなかりけり、ただ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
としたためて師に差し出した。それを見た禅師は
「うんよく見た。これでよし」
と一遍の見性を許した。
 「なり切った当体」と「説明」とははるかにへだたるものがあることは、この話によってもわかるとおりである。 崎山崇源著「禅の教え」p141より

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2008年12月03日

明鏡止水

  澄めば澄む 澄まねば澄まぬ 我が心 
    澄ませば清き 月も宿らん 「禅林世語集」

 心という鏡はもともと清浄なものであるが、雑多な煩悩妄想によって曇らされ、そのために、ものをそのまますなおに映すことが出来ず、たとえ映ったにしてもはっきりと見えないため、しばしば判断を誤る。その曇りを取り除くには心を静め、本来の清浄な心に立ち返ることが第一とされる。
 水に映る月影も水が静止していれば見事に映るが、動けば動くほど千々に散り乱れてしまう。心を磨かれた鏡のように、澄み切った静止した水のようにするには、常に磨くとともに静かに安定させるのが何よりで、座禅の功徳は「一寸坐れば一寸の仏」と古人も言われているように、身をもってまず正しい方法で呼吸を調え、坐ってみるよりほかはない。
 心の平静ということは大事なことだが、ただそれだけが禅の最終目標ではない。せめて明鏡止水の如く常に淡々とした心境でありたい。
         崎山崇源著「禅の教え」より

  


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2008年12月01日

先々之事

7c6c48cf.jpg 剣道で重視する先々の技について、柳生十兵衛は次のように宗矩の言葉を書き留めています。
 これ(先々)が勝つときの極意である。兵法の最高である。習いの数々もここに到達するためのものである。ここに到達すれば、習ったことはみな非(間違い)となり、下手なやり方である。下手だと知りながら、高望みするよりは、下手なやり方である。習いとは、捨てながら捨てない習いである。習いを用いず自然に習いに一致すること、意識せずに到達すること、これが先々である。
 自分の心を敵の心に置き換えて仕合をすれば、早く思い始めたほうが勝つのである。無心に仕掛けて、無心に勝ち、是非の分別も入れず、初一念早いのが、先々の勝ち方である。善も悪も一つである。この心は、弛むものであり、抜けるものである。気を抜くまいとすれば、固くなってしまう。これ(先々)を可能にするのは、「指目(初一念)」、「西江水(尻を張る)」である。
 初一念の起こり始めの根本は、心である。この心を「西江水」に置いてみれば、「初一念」の起こるところが、「先々」と勝てるところである。起こる「初一念」を「指目」という。心は念の本なので、念が先であり、心が先である。「初一念」は、技の先である。したがって「先々」である。これが最高の極意である。
 「初一念」は、技の先である。「初一念」に、間断のない打ちを「無拍子」というのである。心を「先性」という心得がある。心の最高であると理解できる。「空先」というものも心である。平常心である。  「禅の思想と剣術」 p300より

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2008年11月29日

禅の思想と剣術

 先日の8段審査会場の日本武道館で、佐藤錬太郎著「禅の思想と剣術」日本武道館発行、という本を購入した。今日から読み始めたばかりで丁寧には読んでいないのだが、何年かぶりに本当に良い本に出会えた感じがする。読むのが楽しみである。日本武道館発行の月刊誌「武道」に連載していた記事をまとめたものだと思いますが、内容がすばらしいです。まだ読み終わってもないのに、あとがきをめくっていたら、著者は佐藤貞雄先生のお孫さんにあたる方ということがわかり、そこでまた感動いたしました。それは、戦前の話ですが、佐藤貞雄先生は家が近くで習成館に稽古によくいらしていた、と聞いていたからなのです。この本に偶然に出会ったのですが、何か因縁のようなものを感じました。じっくりとこれから読んで研究していこうと思います。特に「心」について、安心、有心、虚心、残心、直心、平常心、不動心、放心、捧心、本心、無心、妄心といった禅語の言葉が出てきますが、その解釈が訳文、解説といった形でわかりやすく書かれています。これから内容もブログに書こうと思いますので、楽しみにしていて下さい。

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2008年11月27日

歩歩是道場

 「歩歩是道場」  
         趙州(じょうしゅう)の言葉です。
 どこにいても、そこが道場、人生修行の場だ、という意味。歩々とは、行住坐臥、いつでも、どこでも、だれでもということでしょう。
 お釈迦様は、「十二縁起」ということを説いています。「般若心経」に出てきます。
 イ、深層の自我意識
  〔橘澄ΑΑγ侶辰無い、根本的なエゴのこと。
  行・・・・そのエゴで行った、心の習慣のこと。
 ロ、自我意識の成立
  識・・・・認識、意識のこと。
  ぬ梢АΑΑβ仂櫃箸靴討諒事や、意識の土台と
        してある生命のこと。
  ハ仔・・・六つの感覚器官(六根)のこと。
  触・・・・外界と接触する働きのこと。
  Ъ・・・・感受する能力のこと。
 ハ、自我意識の現象
  ┛ΑΑΑΑβ仂櫃篌己に対する愛着の働きの
        こと。
  取・・・・それによってこだわること。
  有・・・・自己があるという思いのこと。
 二、自我の行為と結果
  生・・・・それによって生きがいを持つこと。
  老死・・・その生きがいを行うとそれ相応の
        苦労が伴う、ということ。
 以上が「十二縁起」で、人間の行為と、その結果の縁起を示しています。
 ここでわかるのは、〔橘世ら有の自己意識までの多くの条件の上に立って、生きがいが成立しているということです。そして、そこに知性が働き愚かさにこだわらなければ、よかったといえる生き方を実現でき、愚かになれば苦しみを輪廻する構造が明らかになっています。人生の自己責任を知恵をもって生きましょう。
 どこにいても、そこが道場、人生修行の場。修行とはわれを尽くすことなり。人は、自分の立場、自分の役目、自分の信念、自分の選んだ道を背負って生きているのです。そこで、最善を尽くすのが、いただいた命を生かしきる生きざまでしょう。社会生活の人生修行でも、剣道修行でも同じで、「われを尽くすこと」だと思います。
       中野東禅著 「禅語入門」より






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2008年11月26日

昇段審査と生涯剣道

「仏道は初発心のときも仏道なり、
    成正覚のときも仏道なり、
       初中後とも仏道なり」  
          「正法眼蔵」説心説性より

 ぶつどうはしょほっしんのときもぶつどうなり、
  じょうしょうがくのときもぶつどうなり、
   しょちゅうごともぶつどうなり


 大乗仏教では、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶつしょう)」といい、人間はすべからく生まれながらにして仏性=理想的な人格者になりうる素質を備えていると説く。人間は修行によってはじめて覚るものではなく、すでにして生まれたときから覚っている。
 人間には豊かな仏性が備わっているが、その仏性は磨かないことには、明らかにあらわれないものなのだ。
 学問や宗教を深めていく上で、危険なのは、いまの自分の鈍足なあり方に失望することだ。自分には能力がないと簡単にあきらめ、千里の先に輝く頂きをめざす意欲を喪失することだ。
 しかし、はじめて発心したときの仏道(剣道)も、修学途中の仏道(剣道)も、悟ったのちの仏道(剣道)もみな同じと考えたらどうだろう。
 千里の道を歩ききるためには、最初の一歩、最後の一歩、いやどの一歩をとっても等価値ではないか。千里の道一歩一歩のなかにあらわれており、どの一歩が欠けても千里の道を踏破することは不可能となる。
 こうして初心者にも勇気を与え、鼓舞したのち、道元は悟りには奥行きがないから絶えず修行につとめよという「証上の修」という独特の論理を展開した。道元は、人間は鍛えればどこまでも向上するものだと力強い啓示を与え続けている。           百瀬明治著  「名僧百言」より
 
 今年の昇段審査も終わりに近づいています。前館長は、ちょうど10年前の今日11月26日に、74歳で8段審査に合格しました。あれから、ちょうど10年です。
 私の恩師であり、父と同級生のI切先生は、今年も元気に8段審査を受審されました。結果は残念でしたが、1日目の受審者の最高齢でした。これからも元気で挑戦していただきたく思います。これからも生涯剣道の見本をお示し下さいませ。
 


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2008年11月18日

心にまよふ こころ成けり

  こころより こころをえんと 意得(こころえ)て
            心にまよふ こころ成けり
              「一遍上人語録」より

 人間の心とは、とかく頼りないものである。心に固執すればするほど心は頼りなく、定めがなくなっていくから、困ったものである。心を鈍化しようと試みれば、かえって心の呪縛のとりこになるだけで、悟り的な心境とはますます遠くなる。明鏡止水とはまずいくことがない、心中は迷いの濁りでいっぱいになってしまう。
 だから古人はたいてい、心から離れることが肝心だと説いた。無念無想、離念こそが本当の静謐(せいひつ)と思うがままの対応を可能にする要諦だとみなした。
 たとえば剣の達人や芸の達者がことあるごとに強調するのが、無念無想の境地である。心がどれほど行為の妨げになるか、心は妄念のるつぼであり、そういう心のとらわれを放念したところに、真の自在な能力を操ることが可能になる、という。一遍の離念の勧めは、私たち現代人がおちいりやすい自意識過剰の弊にとっても有効な戒めとなるであろう。  百瀬明治著 「名僧百言」より

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2008年11月15日

遇わねばならない人

60f88be6.jpg 明日は、いよいよ4,5段昇段審査です。受審される方々のご武運をお祈りいたします。普段の力が出せれば大丈夫です。
 写真を整理していたら、この夏に飛騨高山へ旅行した時に撮った写真が目に止まりました。

  たとえ  一生を尽くしてでも  
    遇わねばならない   ひとりの人がいる 
          それは私自身


 「自分探しの旅」「自己分析」ですね、結果が良い方が良いに決まっていますが、自分自身との会話が大事ですよね。剣先の会話も大事ですが、、、。審査中は無念夢想ですが、、、。心の会話、課題です。


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2008年11月13日

まさかの坂

 人はなかなか「まさか」という坂は越えられない、と言われています。
 前館長である父が亡くなってから、来月13日で丸四年になります。「まさかあの人が」という坂を無事に越えていく過程をグリーフワークと言うそうです。悲嘆解消プロセスのことです。亡き人の死を受容し、納得し、新しい自分を構築して、社会生活を歩み出すまでには誰でも時間がかかります。「まさか」という坂を越えていくには、自分の足元にある「おかげ」という影を追ってみることだそうです。そうすると、生前戴いたおかげさまを思い出します。私達は一瞬一瞬を他人や物から影響を受けて生きています。今の自分にとって良い影響を「おかげ」という言葉で表してきました。「あの人があの時に言ってくれた言葉で今の私がある。」こうした「おかげ」を思い出してみると、やり切れぬ喪失感の中に今の自分を肯定できるようになり、知らぬ間に「まさか」という坂を越えることになるそうです。
 ホームページのトップの亡き父が動いているのを見ていると、父もホームページ開設を喜んで笑っているように見えました。また、死んでもまだ動かされてはかなわない、とでも言っているようにも見えました。「亡くなった後から真実の会話が始まる」という実感が湧いてきました。今日は祥月命日です。合掌。

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2008年11月12日

自分らしく生ききる心

 禅語入門という本の中に、以下のような記述がありました。
 月をこよなく愛し、「月の歌人」といわれた明恵上人は、次のような和歌を詠んでいます。
  あかあかや あかあかあかや あかあかや
  あかあかあかや あかあかや月
 この和歌は川端康成さんがノーベル文学賞受賞記念公演で取り上げ、有名になりました。その明恵上人が、
  人は阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)という七文字を持つべきなり。
といっています。
 人としてのあるべきよう、私としてのあるべきようを持つべきだ、ということです。「あるべきよう」を心がけていれば、世の中に悪いことはあるはずがない、と明恵上人はいいたかったのでしょう。ちなみに、明恵上人は1173年に生まれた栂尾に高山寺を開いた高僧です。
 剣道の稽古、剣術の稽古のあるべきようを頭において、意識して、自分らしく生ききる心、その探求を求め続けたい。永遠の課題ですよね、課題がでかすぎた?頑張ろうっと。

shuseikan at 23:19|PermalinkComments(0)
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