2025年01月14日
2025年01月13日
柴田衛守記事
土曜日、新宿の新年会の席で早大OBの方から「佐賀スポーツ人国記」という本の中で初代習成館館長柴田衛守の記事を頂きました。ありがたい事です。私はこの記事の内容は知ってはいたのですが、若い方は知らない方も多いと思いますので、ここに掲載させて頂きます。
写真の字が小さくて読めないと思いますので以下に記します。
辻真平は、確かに佐賀が生んだ当代一流の剣客であった。
近代剣道の発展史上、画期的なこととして、「大日本帝国剣道形」の制定がある。剣道が明治四十四年、中等学校の正科に採用が決まったのを機会に、従来各流派ごとにまちまちだった「形」を統一しようというもので、全国から三十人の委員が選ばれ、このうち五人が主査として草案の作成に当たった。大正元年のことである。この五人の主査とは、京都武徳会本部の内藤高治、門奈正、東京の根岸信五郎、高野佐三郎、それに佐賀の辻真平で、この主査のリーダー格は辻であったといわれる。
草案づくりは、京都市内妙伝寺を借り受け、酷暑をおかして連日続けられた。五人はいずれも各流派の流れを伝える一流の剣客たち、自分の学んだ流派の形を少しでもこの中に取り入れ、後世に残そうとの努力もまた真剣で、後年、高野は「短刀を懐にし、自分の意見がいれられないときは差し違えて死ぬほどの覚悟で会合に臨んだ」と述懐している。
ところで江藤冬雄によれば、明治三十年代の半ば、大日本武徳会の陰の”実力者”として、そのころニラミをきかしていた渡辺昇という子爵が佐賀にやってきた。渡辺は肥前大村藩士、身長一八〇センチに近く体重も九十四、五キロという巨漢。幕末江戸の斎藤弥九郎道場で神道無念流を学び、免許皆伝、「日本一」を自称していた、やや自信過剰の人物である。
佐賀中学の道場で佐賀在住の剣道家多数が集まって、この渡辺子爵歓迎の剣道大会が催された。渡辺昇も自ら道場に立って佐賀の剣客たちを相手に稽古をつけたが、最後に辻との模範試合になった。そのとき、渡辺は一本もとれず、後にはいらだって、乱暴にシナイを振り回しはじめたが、辻はただ冷然として平正眼の構えのまま、渡辺の刀を払っては打ち、受け流しては打ち、段違いの使い手ぶりを示した。このとき、初めて佐賀の剣道関係者は辻の真の実力を見て驚いたという。
また、これも江藤の話だがーーー明治末期、天覧試合があった。そのとき辻は鞍馬流の達人、柴田衛守と当たった。柴田は西南戦争で活躍した警視庁抜刀隊の生き残りで、捲き落としという秘技の持ち主。よほどそれを警戒していないと、アッという間にしてやられる。ところが辻は平然として、正眼にかまえ、すすっと迫ったところ、切っ先を押えて、手の内緩と知った柴田が得意の捲き落とし。辻、ばったりシナイを落とした。
柴田が黙って見ているなかを、辻は平然として落ちているシナイを拾って、また同じように構えた。依然、辻の手の内は緩である。そこで、また、捲き落とし。辻はまた前と同じように落ちたシナイを拾おうとした。そのとき、柴田が初めて声をかけた。
「切りますよ」
そうすると辻は
「切られますか、それでは参った」
と、言ったので、この試合は辻の負けとなった。
このときの態度をもって、辻は大胆不敵という評判がたったが、その試合の日の夜、辻が同郷の北島辰一郎(後の学習院剣道師範)の家に来て、「ああ、拙者一期の不覚」と言って泣いたーーーという。
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写真の字が小さくて読めないと思いますので以下に記します。
辻真平は、確かに佐賀が生んだ当代一流の剣客であった。
近代剣道の発展史上、画期的なこととして、「大日本帝国剣道形」の制定がある。剣道が明治四十四年、中等学校の正科に採用が決まったのを機会に、従来各流派ごとにまちまちだった「形」を統一しようというもので、全国から三十人の委員が選ばれ、このうち五人が主査として草案の作成に当たった。大正元年のことである。この五人の主査とは、京都武徳会本部の内藤高治、門奈正、東京の根岸信五郎、高野佐三郎、それに佐賀の辻真平で、この主査のリーダー格は辻であったといわれる。
草案づくりは、京都市内妙伝寺を借り受け、酷暑をおかして連日続けられた。五人はいずれも各流派の流れを伝える一流の剣客たち、自分の学んだ流派の形を少しでもこの中に取り入れ、後世に残そうとの努力もまた真剣で、後年、高野は「短刀を懐にし、自分の意見がいれられないときは差し違えて死ぬほどの覚悟で会合に臨んだ」と述懐している。
ところで江藤冬雄によれば、明治三十年代の半ば、大日本武徳会の陰の”実力者”として、そのころニラミをきかしていた渡辺昇という子爵が佐賀にやってきた。渡辺は肥前大村藩士、身長一八〇センチに近く体重も九十四、五キロという巨漢。幕末江戸の斎藤弥九郎道場で神道無念流を学び、免許皆伝、「日本一」を自称していた、やや自信過剰の人物である。
佐賀中学の道場で佐賀在住の剣道家多数が集まって、この渡辺子爵歓迎の剣道大会が催された。渡辺昇も自ら道場に立って佐賀の剣客たちを相手に稽古をつけたが、最後に辻との模範試合になった。そのとき、渡辺は一本もとれず、後にはいらだって、乱暴にシナイを振り回しはじめたが、辻はただ冷然として平正眼の構えのまま、渡辺の刀を払っては打ち、受け流しては打ち、段違いの使い手ぶりを示した。このとき、初めて佐賀の剣道関係者は辻の真の実力を見て驚いたという。
また、これも江藤の話だがーーー明治末期、天覧試合があった。そのとき辻は鞍馬流の達人、柴田衛守と当たった。柴田は西南戦争で活躍した警視庁抜刀隊の生き残りで、捲き落としという秘技の持ち主。よほどそれを警戒していないと、アッという間にしてやられる。ところが辻は平然として、正眼にかまえ、すすっと迫ったところ、切っ先を押えて、手の内緩と知った柴田が得意の捲き落とし。辻、ばったりシナイを落とした。
柴田が黙って見ているなかを、辻は平然として落ちているシナイを拾って、また同じように構えた。依然、辻の手の内は緩である。そこで、また、捲き落とし。辻はまた前と同じように落ちたシナイを拾おうとした。そのとき、柴田が初めて声をかけた。
「切りますよ」
そうすると辻は
「切られますか、それでは参った」
と、言ったので、この試合は辻の負けとなった。
このときの態度をもって、辻は大胆不敵という評判がたったが、その試合の日の夜、辻が同郷の北島辰一郎(後の学習院剣道師範)の家に来て、「ああ、拙者一期の不覚」と言って泣いたーーーという。
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